壬辰倭乱を何度も謝罪した江戸時代の日本

 だが交流が重なると、朝鮮のソンビは日本人がじっと隠していた生に対する愛着を読み解き、儒教的な仁を共になす隣人として彼らに接し始めた。父と子が互いを信じず刀を帯びて対座するのも、自らを守れなくなるほど酔わないよう酒を節制するのも、命を大切にするからだということを看破した。サムライが主君のために命を投げ出すのは、忠誠を扶持(ふち)と交換しなければならないからで、戦死するとき刀を顔で受けるのは、逃げて背中に刃を浴びては残った家族が生活苦に陥るからだった。

 1760年に訪日したソンビの元重挙(ウォン・ジュンゴ)が見た日本は、カン・ハンが伝えた日本ではなかった。江戸幕府は儒学を奨励し、武士であっても公共の場所で刀を抜くことを禁じた。日本人は、通信使の到来を祝う大砲の音に驚いて耳をふさぎ、逃げ散るほど柔弱になっていた。

 日本は、壬辰倭乱の過ちも機会があるたびに謝罪した。18世紀の日本の文人・那波魯堂は、朝鮮通信使との対話の場で「秀吉政権は朝鮮よりも日本により大きな害を及ぼした。どうして朝鮮の怨讐(おんしゅう)にとどまるだろうか」と語った。朝鮮のソンビの対応は「許すが忘れず」だった。元重挙は『和国志』に、壬辰倭乱の際における日本の部隊編成、戦争に参加した武将の名前と職責、各部隊が殺した朝鮮人の数などを細かく記録して「私が必ずこれを記録しようとする理由は、すなわちそれを忘れないようにするため」と記した。それでも、日本人が「われわれに復讐しようというのか」と尋ねると「日本に対しては恩があるのみで、恨みはない」とし、両国の和解を力説した。通信使らが朝鮮に戻るときになると、日本の文士たちが見送りに来て惜別の涙を流した。

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