名古屋に住む堂叔母(父のいとこの配偶者)と一昨日映像で通話した。一番上の孫が名門大学に合格したそうだ。祝いの言葉を伝えた後、私は久しぶりに昔の話を少し聞かせてくれと頼んだ。堂叔母には実家の家族は一人もおらず、全員が1960年代に北朝鮮に渡った。堂叔母は1980年代に一度だけ北朝鮮に行ったという。日本でかつてそれなりのエリートと考えられた堂叔母の弟は咸鏡北道丹川で農業をしていた。そのつらい生活の様子に胸を痛め、現金10万円と持っていった服を置いて帰ったそうだ。
「あの時(家族は)なぜ北朝鮮に行ったんですか?」「弟は勉強がよくできた。三菱に合格したが、面接の後で連絡が来た。朝鮮人だから駄目だと」。差別から逃れるために行った「地上の楽園」は実際は「地獄」だった。もうすぐ90歳になる堂叔母の黒いほくろやしみだらけの顔に涙が流れた。
6・25戦争で兵士や民間人合わせて200万人以上が犠牲になった。韓国人の誰もが、一つか二つの橋を渡れば戦争と分断の被害者とつながっている。今その被害者たちも少しずついなくなった。生きていれば90歳を超えている2番目の叔母から連絡が途絶えたのはもうずいぶん前のことだ。夫を先に送り、70年間一人で生活してきた伯父の母親も90歳で亡くなったそうだ。堂叔母の両親や兄弟も全てこの世を去った。もう苦痛の歴史は終わったのだろうか。
そうではないことを私は北朝鮮軍兵士のインタビューを通じて改めて知った。戦争と分断の傷を生み出してきた北朝鮮は謝罪するどころか、逆に自分たちが侵略されたと逆切れするような態度だ。今は自分たちの圧政と人権抹殺を同じ独裁国家の同盟国を通じて海外にまで広めようとしている。こちらが経済的な利益を優先して北朝鮮と適当に妥協し、今後も問題の本質から顔を背けていれば、事態はさらに深刻になるだろう。
毎日のように隣に住む男が家族に暴力を振るっているのに、これを傍観すれば幸せな家庭のだんらんなど色あせるだろう。独裁に沈黙する「利己的」自由民主主義は他国から尊敬されず、自国でも支持を得られない。
「攻撃は最大の防御」という言葉がある。これは北朝鮮に戦争を仕掛けるという意味ではない。自由を奪われ苦痛にあえぐ北朝鮮住民に自由民主主義を知らせる積極的な努力こそ、われわれにとって自由と民主の価値を守る最善の手段という意味だ。これこそわれわれが統一という目標を諦めてはならない理由だ。韓国の憲法第4条にも明記されているように、われわれは「自由民主的基本秩序に立脚した平和的統一」を絶対に放棄してはならない。
チャン・ブスン関西外国語大学国際関係学教授