避難民たちは墓の上でも生き抜いた【朝鮮日報コラム】

釜山・峨嵋洞の碑石村に行ってみた

日本人共同墓地の墓石・石仏を土台や塀にして家を建て、避難民は苦難に耐え抜いた

 釜山市峨嵋洞に行ってきた。「碑石村」と呼ばれる場所だ。釜山駅の向かい側から87番のバスに乗って南西へ20分走り、「カチセギル入り口」の停留場で降りた。傾斜が45度以上もありそうな急坂だ。スレートぶきの小さな家が連なっていた。ここを訪れたのは、ソウルの北ソウル美術館で開かれている展示の作品を見たからだった。アーティストのホンイ・ヒョンスクが演出した13分42秒の動画作品「峨嵋洞碑石村」。同じくアーティストのヨム・ジヘとの2人展で開催している「石と夜」の展示作品の一つだ。今月30日まで開かれている。

 峨嵋洞碑石村は、植民地時代の日本人共同墓地があった場所だ。日帝敗戦後、日本人遺族らは墓をそのままにして急いで釜山を離れなければならなかった。5年後に6・25戦争が起きると、戦乱を逃れた避難民が戦時首都の釜山に押し寄せた。なんとしてでも生きていかねばならなかった。墓を壊し、その上にバラックを建てた。墓石や石仏は土台になり、路地の階段になり、塀になり、踏み石になり、洗濯板になった。

 今も各所に痕跡が残っている。地区の入り口に当たる教会から集落に入った。二人肩を並べて歩くのも難しいほど狭い路地が、斜面上に迷路のように続いている。家は消えて土台だけが残っている場所に、漢字の刻まれた墓石があった。「明治四十二年五月廿七日没」。1909年5月27日に没した人物の墓石だ。名前は土台内側の方に刻まれていて確認できない。大正2(1913)年8月12日のものもある。死没した日は塀の内側の方に刻まれ、墓の主人の名前が外に見えている墓石もある。「國分治之墓」という字が鮮明だ。もしや名の知れた人物だろうか? 日本のポータルサイトに名前を入力すると、検索結果として出たのは、1964年の映画『東京五輪音頭』の脚本家だという同姓同名の「国分治」氏だけだった。

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  • ▲ソウル市芦原区の北ソウル美術館で展示されているホンイ・ヒョンスクの映像作品「峨嵋洞碑石村」
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