義兵なのか、盗賊団なのか…ソウル西大門殉国先烈追念塔「義兵処刑像」に描かれた義兵の実像に迫る(中)

不十分な検証が生んだ混沌…西大門殉国先烈追念塔

 追念塔のレリーフ歪曲(わいきょく)を追跡してきた釜山科技大警察行政学科の李徳仁(イ・ドクイン)教授は「1909年7月12日に司法権が統監府に移るまで、司法権は大韓帝国政府が行使していた」と語った。日本が出版した各種の写真集では、義兵討伐作戦時に逮捕したり処刑したりした朝鮮人の写真については、自分たちがやったということを隠さずに記録していた。

 だとすると、写真に登場する者たちは誰なのか。強盗団、泥棒たちである可能性が高い。死刑は国王の許可事項だ。実録によると、1904年1月2日から1905年10月26日までの国葬期間中、国王の高宗が絞首刑を許可した人間は合わせて144人。高宗は、1904年2月7日に「殺人強盗犯」42人、3月9日に「殺人犯」14人と「強盗犯」6人、「窃盗犯」10人、3月15日に「強盗犯」など27人、1905年7月22日に「強盗、窃盗、殺人犯」45人に対し絞首刑を允許(いんきょ)した(『高宗実録』の各日付条)。このうち、写真に出て来る罪人12人と数字が一致する刑執行は、1904年3月15日の27人のうち、漢城裁判所管轄の罪囚12人だ。

 大韓帝国の司法記録である「司法稟(ひん)報」報告書1904年(光武8年)3月17日付によると、罪人の名は任福万(イム・ボクマン)、車善益(チャ・ソンイク)、李致景(イ・チギョン)と崔大有(チェ・デユ)、金学俊(キム・ハクチュン)、韓士秀(ハン・サス)、徐允明(ソ・ユンミョン)、李宝景(イ・ボムギョン)、金竜根(キム・ヨングン)、朴千万(パク・チョンマン)、千応沢(チェ・ウンテク)、鄭竜基(チョン・ヨンギ)の計12人だ。最初の3人は暴力を伴う常習窃盗犯で、残る9人は強盗団だった。執行者は漢城府裁判所検事の尹邦鉉(ユン・バンヒョン)、報告の受領者は大韓帝国法部大臣の李址鎔(イ・シヨン)だった。(『司法稟報』〈乙〉43冊56、奎章閣韓国学研究院)

 この面々は3月15日の夜9時(下午九点鐘)に漢城監獄(監獄署)の絞首台で処刑し、翌日その遺体が群衆に公開展示された後、人々に埋葬させた(使之出埋)。他の絞首刑の罪囚らはすぐに埋葬(即埋)処理されたが、この面々は即時の埋葬はされなかった。処刑台の木の柱の近くに、囚人の遺体を運んできたチゲ(背負い子〈しょいこ〉)が見える。

 しかも、3日前の1904年3月12日、大韓帝国の法部(省に相当)から「白昼においても略奪や殺人はひんぱんに起きているので、特別に厳しく取り締まり、処罰せよ」という特命が全国に下されていた(1904年3月12日付『訓令十三道六港一牧裁判所件』。法部『訓指起案』『起案』第11冊〈奎17277の5〉。都冕会〈ト・ミョンフェ〉『1895-1908年間のソウルの犯罪様相と政府の刑事政策』より再引用。『歴史と現実』74、韓国歴史研究会、2009)。この雑犯12人は、そのテストケースになったと推定される。乙巳条約の1年後、大韓帝国の外交はもちろん内治まで実質的に掌握してしまった統監府は「残忍で効果もない公開処刑を廃止せよ」と大韓帝国法部に勧告してもいる(1906年8月26日付『皇城新聞』)。

朴鍾仁(パク・チョンイン)記者

【Photo】写真はがき「韓国風俗:罪人の絞殺」をモチーフにした殉国先烈追念塔の義兵処刑像

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  • ▲1904年3月15日、窃盗犯・強盗犯12人の集団処刑執行および名簿を報告した「司法稟報」/奎章閣韓国学研究院
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