■「独立軍義兵殉国先烈処刑像」の原本写真
「独立軍義兵殉国先烈処刑像」では、集団絞首刑に処された韓服(韓国の伝統衣装)姿の人物7人が彫刻されている。丸太をごちゃごちゃと組んで作った処刑台から縄でつるされ、処刑された義兵たちの姿が淡々と描写されている。この場面もまた、モチーフになった写真が存在する。植民時代に日本の記念品店で流通した写真の一つだ。この写真では、追念塔のレリーフに登場するものと似た形の処刑台に、韓服姿の男たちがつるされている。合わせて12人で、まげを結った男の姿も見える。追念塔では、1)写真左側の4人中3人、2)右側の8人のうち左端の髪をそった人物と、まげを結って背中を見せている人物、胸をあらわにした人物を順序を入れ替えて彫刻し、3)柱の後方に重なって見える人物を一人の人物として彫刻し、これを「独立軍義兵殉国先烈処刑像」と命名した。だが、果たしてこれらの人物は「集団処刑された義兵」なのか。
【Photo】写真はがき「韓国風俗:罪人の絞殺」をモチーフにした殉国先烈追念塔の義兵処刑像
■いつ撮影した写真なのか
写真そのものに、彼らの正体を知る手がかりが隠されている。まず、この写真はがきの下端には、このように記されている。「韓国風俗:罪人の絞殺」。「韓国」とは、日本が大韓帝国を植民時代の朝鮮と区別して呼んでいた名称だ。この刑執行の時期は、日韓併合が行われた1910年よりも前であることは確実だ。
さらに具体的に見てみよう。この写真は、1904年1月2日から1905年10月26日までの間に撮影された写真だ。期間を確定できるヒントは、背景に見える、白い服と白いカッ(成人男性がかぶる笠子帽)を着用した群衆だ。「白笠」と呼ばれた白いカッは、朝鮮王朝と大韓帝国において国葬時に一般民衆が着用していたものだ。国葬が行われたら1年間は、上下を問わず民は白笠を着用しなければならない。大韓帝国時代に国葬は2回あった。1904年1月2日、憲宗妃洪氏明憲太后が亡くなった(『高宗実録』1904年1月2日条)。その後1年間、大韓帝国皇民は全て白衣と白笠の着用が義務付けられた。この国葬が終わる2カ月前の1904年11月5日、皇太子の純宗妃閔氏が亡くなった(『高宗実録』1904年11月5日条)。そこで大韓帝国の人々は、この日から陰暦で1年が経過した1905年10月26日まで、また白笠と白衣を着用した。従ってこの写真は、1904年1月2日から1905年10月26日までの間に撮影されたもので、刑執行もまたその期間にあった。
■集団処刑された窃盗犯・強盗犯
ソウル特別市は、この場面を日本軍による義兵処刑場面だと断定し、追念塔に彫刻した。果たしてそうだろうか。別の角度から撮影した写真がある。下の写真は、1906年から07年にかけて朝鮮と満州、日本を旅行したフランスの武官レオ・バイラムの紀行『小さな日本が大きくなった』(Petit Jap deviendra grand、ベルジェ・ルブロー、パリ、1908)の75ページに載っている。
処刑台の周辺に立っている刑吏たちもまた、白笠と白衣を着用している。朝鮮人だ。処刑場のどこにも日本軍の姿は見えない。バイラムは「数ページの歴史」と題した章において、日本の侵略部分にこの写真を載せて「日帝の弾圧-絞首刑」と説明した。だが、この写真はバイラム本人が撮影したものではなく、購入した写真だ。バイラムは1906年に大韓帝国へ入国したが、このときは既に国葬が終わっており、通常の服装に戻った後だった。また旧韓末以来、朝鮮の風俗を撮影した写真が印画やはがきとして大量に作られ、日本や西欧で流通した。バイラムの写真の説明は、購入の過程で生じた錯誤あるいは本人の先入観である可能性が高い。当時、朝鮮あるいは大韓帝国を「未開の国」と見なす日本が無作為に作った写真を、西洋メディアが検証もなしに引用し、記事の内容に合わせて勝手に説明を付けたせいだ。