「それでもわれらはまた一日を生きていく」 厳しい暮らしに耐えた朝鮮人女工たちの歌

日帝強占期の「女工」たちに光を当てたドキュメンタリー『朝鮮人女工の歌』、8月7日封切り

 今年98歳のキム・サンナムさんは若いころ、小さな体で家族全員の生計を背負い、「飯櫃(めしびつ)」と呼ばれた。年齢をごまかし、11歳のころから大阪の紡績工場で働いた。認知症によりほとんどの記憶が消えたが、工場でのことは生々しく覚えている。「日本の人が私にちょっと突っかかってくるのが見える。私は黙ってるものか、絶対に負けなかったよ」

【Photo】ナレーター・俳優としても出演したカン・ハナさん

 日帝強占期に大阪の紡績工場で働いていた朝鮮の女工たちに光を当てたドキュメンタリー『朝鮮人女工の歌』が、8月7日に封切りされる。1910年代、朝鮮の経済は日帝に編入され、10代の少女たちはお金を稼ぐため日本へ渡った。朝鮮人女工が最も多かった岸和田の紡績工場では、1919年から41年まで、およそ3万人が働いた。7月30日に開かれた試写会で、イ・ウォンシク監督は「強制労役や慰安婦に関する映画は多いが、女工たちの物語は関連研究すら見つけるのが難しかった」と語った。

 誰も注目しなかった若い女工たちの厳しい暮らしを、温かい視線でよみがえらせた。10代で朝鮮を離れ、今はおばあさん(ハルモニ)になった女工たち22人の生々しい証言が収められた。女工たちは毎日12時間、昼夜2交代で働き、居眠りして糸が切れでもしたら罵声やむち打ちが飛んできた。故郷にお金を送ったら、食べていくのも困難だった。食べるものがなく、日本人が捨てた牛・豚の内臓(ホルモン)を焼いて食べていた女工たちは、「朝鮮のブタ」と呼ばれ、蔑視された。

 暗く哀しい歴史にもかかわらず、この映画は、女工たちの若き日々を輝かしく描くことを選んだ。在日韓国人4世の俳優たちが過去を再現したドラマが、自然に染み入る。綿ぼこりが雪のように舞う工場で眠気をこらえつつ働く場面や、日課が終わって海辺でホルモンを焼いて食べる姿は、物悲しいが強靭(きょうじん)な映画の主人公のように見える。そのころのことを証言してくれたハルモニたちに対する献辞だろう。完成した映画を見たハルモニたちは、若いころに戻ったように「母親のことがとても思い浮かんだ」と泣いたという。

 映画の中で女工たちは、気の毒な被害者ではなく、自分の生き方を開拓していく主体的な女性たちだ。女工たちは、故郷に送る手紙を書くため、夜学を開き、ハングルを学び、劣悪な労働環境の改善を要求し、1930年代には大規模なストライキを起こした。記録によると、朝鮮人女工が先頭に立ってストに入ると、日本人女工も後から加わったという。朝鮮人女工について研究してきた歴史学者の樋口洋一氏は「雑草のように強靭な女性たちを尊敬するようになった。女工の苦痛だけでなく勝利と成就にも光を当てるべき」と語った。

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