大韓民国国民という事実だけで胸がいっぱいになり幸せを感じたのはいつだったか。1987年の民主化、88年のソウル・オリンピック、2002年のサッカー韓日ワールドカップ。どれも感激の時代だった。その間にアジア通貨危機も起こった。そのため02年のW杯は一層心地よく美しかった。韓国の準決勝進出が決まった瞬間、レッドデビルズは街中にあふれ出した。歓声が大地を揺らし、韓国人の誰もが幸福のかげろうの中に消えそうに感じられた。
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神話はみせかけのあり得ない作り話ではなく、自尊の意識がその根底にある。20世紀の韓国人は「漢江の奇跡」と「民主化」という神話を作ったが、2002年のW杯準決勝進出は21世紀の韓国人にとって最初の神話だった。この叙事の主人公だったヒディンク監督は外国からやって来た救世主のような存在だった。02年の時点で韓国はFIFA(国際サッカー連盟)ランキング40位。W杯本戦出場は6回目だったが、1954年の初出場以来48年間1回も勝てなかった。そんな国が一気に準決勝に進出できたのはW杯の歴史を見ても前例のない異変だった。ヒディンク監督の功績は韓国サッカーの潜在力を最大限引き出したことだ。
韓国サッカーは自分について無知だった。ヒディンク監督が韓国サッカーに対して最初に下した診断は「技術はあるが体力が弱い」だった。これは従来の見方と正反対だ。それまで韓国サッカーは「体力には優れているが技術面で弱い」とされていた。国際試合で強豪チームと対戦した経験が足りず、自分たちについて知らなかったのだ。W杯1年前にフランス代表と行った評価試合で李栄杓(イ・ヨンピョ)選手はフランス選手の動きに全くついていけなかった。絶望に落ち込んだ。しかし何度も評価試合を重ねるうちに、1年後には周囲の状況が目に見えるようになった。大きな自信が得られたのだ。
もう一つさらに深刻な問題があった。サッカー強豪国と比較して韓国代表の体力が50%だとすれば、試合中の意思疎通はわずか20%のレベルだった。若い選手は先輩の言うことに無条件に従うしかなく、間違っていても何も言えなかった。しかし意思疎通が自由にできなければ試合には勝てない。ヒディンク監督は年齢に関係なく互いの名前を呼ばせた。ボールや道具も全て自分で運ばせた。
もう一つの問題はサッカー以外のことがサッカーを支配したことだ。ヒディンク監督の信条は「サッカーにより、サッカーのために、サッカーを通じた決定であるべき」だった。サッカーが政治的になってはならない。学閥などの縁故主義は韓国サッカーの長い病弊だった。大韓サッカー協会からしてそうだった。メディアやファンはスター選手にばかり関心を向けた。しかしヒディンク監督の唯一の基準は競争力だった。そのため最初は洪明甫(ホン・ミョンボ)や安貞桓(アン・ジョンファン)などのスターも外し、完全に無名だった朴智星(パク・チソン)や李栄杓、李乙容(イ・ウルヨン)などを抜てきした。