「三国遺事の記述は間違い…石窟庵の創建時期は新羅・聖徳王代(706年から11年)とみるべき」

閔丙賛・元国立中央博物館長
『三国遺事』の記録の問題点を指摘
国立春川博物館のシンポジウムで発表

 閔・元館長は「石窟庵の本尊仏は、中国・日本の仏像と比較してみると8世紀前半の様式をよく示している」とし、中国・山西省ゼイ城県で出土した釈迦如来座像(703年)、石造如来座像(710年)や、奈良・薬師寺金堂の金堂薬師如来座像(718年ごろ)などを例に挙げた。「石窟庵本尊像をこれらの仏像と比較してみると、顔や胸の肥満度、衣のしわの硬直性などの点から、おおむね703年から710年までの間に該当する」というのだ。

 また「統一新羅時代の仏像の中で、銘文により正確な制作年代が分かる皇福寺址金製如来座像(706年)や甘山寺石造弥勒(みろく)菩薩立像(719年)を見ると、手の様子や台座を覆いつつ垂れ下がっている衣の形式、写実的な服のしわなど、中国の同時代の仏像と比べてもほとんど時差を置くことなく同じ様式で作られたことが分かる」とし「7世紀後半から8世紀前半の東アジア3国の交流は極めて活発で、聖徳王(在位702-37年)代は遣唐使を46回も派遣するなど、中国と非常に密接な関係を維持していた。唐の仏像様式がほぼリアルタイムで統一新羅に伝えられたとみるべき。8世紀前半の中国と日本の仏像様式を比べてみても、時代の差をほとんど感じることはできない」と述べた。

 石窟庵は、釈迦浄土の世界を完全に具現しようとした仏教彫刻だ。閔・元館長は「日本でも、石窟庵のように八部衆・四天王・帝釈天・梵天・十大弟子などを造成して釈迦浄土を積極的に具現した時期は740年ごろまで。その後は華厳思想が流行し、仏教彫刻の流れが変わる」とし「仏教を日本に伝えた韓半島で、釈迦浄土を具現した仏教彫刻が日本よりも遅れて造成されたというのもおかしい」と指摘した。閔・元館長は「石窟庵の造成時期は、中国との交流が最も活発だった聖徳王代で、『郷伝』に名前が出てくる金文亮が宰相を務めていた西暦706年から11年の間に作られたのだろう」「父親の金文亮は石窟庵、息子の金大城は仏国寺の建立に深く関与し、これが後代に脚色されて『郷伝』に伝えられたとみるべき」と語った。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者

【写真】中国・山西省で出土した石造如来座像(710年)と奈良・薬師寺の金堂薬師如来座像(718年ごろ)

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  • ▲韓国の国宝でユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産にも指定されている慶州の石窟庵。/国立文化財研究院
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