「三国遺事の記述は間違い…石窟庵の創建時期は新羅・聖徳王代(706年から11年)とみるべき」

閔丙賛・元国立中央博物館長
『三国遺事』の記録の問題点を指摘
国立春川博物館のシンポジウムで発表

 慶州の石窟庵は西暦750年ごろ、新羅の第35代・景徳王代に宰相を務めた金大城(キム・デソン)=700-74=が創建したといわれている。『三国遺事』の記録があるからだ。『三国遺事』の「大成孝二世父母」条に「金大城が現世の両親のために仏国寺を、前世の両親のために石仏寺(石窟庵)を建てた」という記述がある。石窟庵は20世紀初めに広く世に知られるようになった後、宗教学・美術史学・歴史学などの人文学だけでなく建築学・数学に至るまで、さまざまな分野で幅広く研究が行われたが、唯一、石窟庵の造成時期については特に疑いもなくこの記録が定説として固まっている。

【写真】中国・山西省で出土した石造如来座像(710年)と奈良・薬師寺の金堂薬師如来座像(718年ごろ)

 ところが釈迦(しゃか)生誕日=旧暦4月8日。今年は5月15日=の前日に、石窟庵の造成時期を少なくとも40年は繰り上げて考えてみるべきだとする主張が学界で提起された。仏教彫刻研究者の閔丙賛(ミン・ビョンチャン)元国立中央博物館長は14日、国立春川博物館で開かれた「再び訪れる光:禅林院址(し)金銅菩薩(ぼさつ)立像」国際学術シンポジウムの基調講演で「石窟庵は750年ごろ金大城が創建したのではなく、706年から711年の間、新羅第33代の聖徳王代に創建されたものとみるのが妥当」として、750年制作説の問題点を指摘した。

 まず、『三国遺事』の内容を細かく見てみると、次のようなものとなる。「慶州・牟梁里で、ある女性が息子の大城と共に貧しい暮らしをしていた。ある日、母子は『布施をすれば万倍の利を得ることができる』という僧侶の話を信じて、生計の唯一の拠り所である田を僧侶への施しにした。少し後に大城は死に、その日の夜、宰相の金文亮(キム・ムンリャン)の息子として転生した。成人した大城は、育ててもらった恩に報いようと、現生の両親のために仏国寺を、前世の両親のために石仏寺を建立した。石窟庵を造ろうとして大きな石に手を加え、仏龕(ぶつがん。仏像を安置する小室)のふたを作っていたところ、石が突然、三つに割れた。大城は憤慨して眠ったが、夜の間に天神が降臨し、全て完成させて戻っていった」

 閔・元館長は「三国遺事は高麗時代の13世紀に僧侶の一然が書いた。石窟庵創建についての内容は、当時慶州地域に伝えられていた説話『郷伝』から抜粋したもので、ごく一部の歴史的事実や実在していた人物・事物に架空の内容を付け加えてつくり出した虚構の物語」だとし、三つの根拠を挙げて反論した。(1)当時の中国や日本などにおける仏像様式の展開過程(2)現存する統一新羅時代の仏像様式(3)八部衆・金剛力士・四天王・帝釈天・梵天・十大弟子から成るいわゆる釈迦浄土の具現が東アジアで流行した時期-などと比較検討してみると、710年ごろの創建とみるべきだというのだ。

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