二階氏は12年の麗水万博の成功にも少なからず寄与した。二階氏は「麗水万博を契機として真の友好の時代を開こう」と、日本が真っ先に麗水万博参加の意思を表明するようにした。万博1年前には日本の旅行会社の代表らを連れて麗水を訪れ、日本で麗水万博ブームをつくり出そうとした。そのとき日本の一部で、独島が表記された韓国の万博PR地図が問題になった。すると二階氏は「私の目にはよく見えない。騒がずに隣国の祭典成功に力を貸そう」と説得した。二階氏は万博成功に寄与した功績により、翌13年に韓国大統領府で当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領から金塔産業勲章を授与された。
二階氏はその後もたびたび支持者を率いて韓国を訪れ、両国の協力の必要性を強調してきた。17年、18年には2年連続で自派閥の国会議員、地方議員など計300-400人を連れて来韓した。
10年には、自身の選挙区である和歌山市に、壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)当時朝鮮に帰化した日本軍の将帥・金忠善(キム・チュンソン)=日本名:沙也可=を追悼する記念碑を立てた。金忠善の子孫が集まって暮らす集落(集姓村)がある大邱市友鹿も訪れた二階氏は「日本が反省して贖罪(しょくざい)でき、真に両国の信頼のため努力できる心の表現」と語った。
二階氏は韓日関係において悪材料が生じるたび、舞台裏で「解決士」として動いた。18年10月の大法院(最高裁に相当)徴用賠償判決、19年7月の日本の半導体部品等輸出禁止で関係が悪化すると「まず日本が手を差し伸べて、譲歩できることは譲歩しよう」と語った。兄弟と呼び合うほど親しい関係だった朴智元・国家情報院長=当時=が特使として派遣されると「東京は見ている目が多すぎる」として大阪のホテルに衆院議員3人を連れて現れ、6時間にわたり解決策を模索した。韓日関係に明るいある外交官は「二階・元幹事長は、公式な場はもちろん私的な席でも韓日の友好関係を強調してきた」とし「今後、日本の政治家の中で誰が二階氏のような役割を果たせるか、分からない」と語った。
李河遠(イ・ハウォン)記者