■デザインだけではない施工能力を評価
建築界では、受賞者個人の力量を含む日本の建築全体の底力が「最多受賞」の基礎になったとみている。プリツカー賞は、アイデアではなく実際に建てられた作品を総合的に評価し、受賞者を決定する。ここにはデザインだけでなく施工能力、資本、関連法規といった建築文化が総体的に反映されるからだ。
KAIST(韓国科学技術院)人文社会科学部のチョ・ヒョンジョン教授は「日本は1960年代から『日本らしさ』を掲げて国際建築界に領域を構築し、当時から『アジア』や『地域』をマークにして、国際水準の建築として遇されてきた」と語った。日本初のプリツカー賞受賞者、丹下健三が敗戦後の国家再建プロジェクトを遂行した東京大学の研究所が、この時期に重要な役割を果たした。チョ教授は著書『戦後日本建築』(MATI BOOKS刊)で、丹下研究所を「戦後日本という国家そのものを設計するシンクタンク」かつ「磯崎新、黒川紀章、槙文彦など才能ある建築家が集まった士官学校」と表現した。このうち、丹下本人と磯崎新、槙文彦がプリツカー賞に輝き、磯崎と槙は草創期のプリツカー賞審査委員としても活動した。
日本建築の研究所文化は、丹下の時代の後も続いている。チョ教授は「日本の建築家らは、留学に出かけるよりも大学ごとの研究所でネットワークを作り、経験を積むケースが多い」とし「海外に行って似たり寄ったりな苦悩をするよりも、日本社会を深く探求する中でノウハウを伝授する方を選んだものとみられる」と語った。
日本特有の職人精神も秘訣(ひけつ)として言及されている。ソウル大学建築学科の徐顕(ソ・ヒョン)教授は「日本は現代以前から『完成度』に対する執着が非常に強かった社会」だとし「今も、建築家がアイデアを出すと、世界最高水準の施工者らがそれを実現する方法を次々と提示し、建築物の完成度を高める」と指摘した。第2次世界大戦後、経済的繁栄を享受する中で、設計はもちろん施工や材料などに十分な費用をかけることができた点、敗戦後も多くの建築雑誌が活発に活動し、建築家らに公論の場が開かれていた点も成功の秘訣に挙げられる。一戸建て住宅中心の住居文化のおかげで、若い建築家らが早くから実務経験を積める機会が開かれている点も、マンション中心の韓国に比べて有利な点といわれている。
蔡珉基(チェ・ミンギ)記者