大法院の今回の判決文は「強制連行否定、自発的売春、積極協力を語るために当該表現を使用したわけではない」と明確に記してくれている。
今回の事件は、慰安婦のハルモニたちと私の戦いではなく、あのような周囲の人々と私の戦いだった。そして、あの周囲の人々の真の不満は、自分たちとは「違う解決方法」が模索され、受け入れられるところにあった。
慰安婦問題はしばしば、韓日問題としか考えられていないが、実は冷戦体制とも深く関連している。慰安婦問題が始まった1990年代初頭は、北朝鮮が日本と国交正常化交渉を繰り広げていた時期で、北朝鮮は慰安婦問題を植民地支配に対する「違法賠償」を受けられる好機と考えた。92年、当時挺対協の幹事を務めていた尹美香(ユン・ミヒャン)元代表が、朝日修交交渉で北朝鮮が「戦争犯罪賠償」を受け取ろうとしているとし、「南と北、皆が」「賠償を受け取るに十分な主体力量」だという用語を使用した背景でもある。慰安婦問題運動に深く関与した法律家らもまた、北朝鮮の対日交渉力を意識した。慰安婦問題で補償ではなく「賠償」を受けようと思ったら「違法」でなければならず、まさにそれ故に、どこまでも「国家による強制連行」であるべき構造がそこから始まり、定着した。
だが当の北朝鮮は2002年の平壌宣言でその主張を引っ込め、経済的補償を受ける方式へと転換した。しかしその後も、尹美香代表など周辺の関係者らは「違法賠償、強制連行」の主張を続けた。この人々が朴槿恵(パク・クンヘ)政権時代の韓日合意に決死反対した理由でもある。
東アジアの安定と平和のために、私は朝日修交を期待する側にいる。だがその過程で、国家のプライドを満たす手段として慰安婦のハルモニたちは、全く望んでいなかった「性奴隷フレーム」に閉じ込められることになった。そして再び国家に動員され、長い間街頭に立たねばならず、今では多くの方が世を去った。私が『帝国の慰安婦』を書いたのは、その方々が戦争の犠牲者ではなく、植民地支配の犠牲者だという事実を明らかにしたかったからだ。他界されたハルモニたちの冥福を祈り、残るハルモニたちの平安を祈願する。
朴裕河(パク・ユハ)世宗大学名誉教授