慰安婦のハルモニ(おばあさん)の名誉を毀損(きそん)したとして刑事告発されてから9年4カ月を経て、大法院(最高裁に相当)で無罪の趣旨の破棄差し戻し判決を受けた。判決文では、私の執筆動機と文章の意図が明確に把握されており、学問と歴史に対する深い考察も含まれていてうれしく、またありがたかった。
【写真】慰安婦被害者たちのために製作された強制わいせつ犯・林玉相被告の作品「大地の目」
30年前のことが思い出される。1990年代初頭、日本留学の最後のころ、慰安婦問題が初めて提起された。東京で開かれた慰安婦証言集会で、私は無料で通訳ボランティアを務めることになった。涙を流しながら通訳した経験が、まさにこの問題との最初の出会いだ。帰国後、「ナヌムの家」を訪れてハルモニたちの話も聞き、証言集も読む中、私は世間で慰安婦問題が消費される方式に少しずつ疑問を持つようになった。2005年に出した著書『和解のために』で私は、そうした疑問を初めて世に提起した。メディアからも好意的に取り上げられ、「文化観光部(省に相当)優秀教養図書」にも選定されたが、本はあまり売れず、広くは読まれなかった。
その後も慰安婦問題を巡る韓日対立は激化していくばかりだった。韓国国内に少女像が作られた直後から、私は慰安婦問題についてもう一度きちんと書かなければと考えた。声の大きな両極端の戦いに動員され、全く同じ声を強める人々ばかりが増えていく消耗的な現実にブレーキをかけたかった。
長い時間をかけて慰安婦のハルモニたちと会い、関係書籍の大部分を読んできた私から見るに、ハルモニたちの生涯をまともに見ようとする人はほとんどいなかった。大切に考えているようでいて、実情は、ハルモニたちは疎外されており、慰安婦問題が解決しない原因はほとんどそこにあると私は考えた。2013年に『帝国の慰安婦』を出版し、再びハルモニたちと会った。彼女らは依然として疎外されていた。「敵は100万、私は1人」「挺(てい)対協抜きで補償を直接受けたい」というハルモニたちの吐露を聞き、私はこれまでの疑問と判断に間違いはないという確信を得た。
両極端を批判する私の著書を、その両極端は、自分たちの既存の主張に合わせて誤読した。右派の一部は、私が自分たちと同じく「慰安婦は売春婦」だと同意したとして歓迎し、左派の一部もまた、慰安婦を売春婦と非難したとして私を攻撃した。ついには、私が慰安婦のハルモニたちと会うことを露骨に嫌がっていた「ナヌムの家」は、私がハルモニたちの名誉を毀損したとして刑事・民事・仮処分の訴訟を起こした。本を出してから10カ月が経過していた。私と最も親しかった慰安婦のハルモニが物故してから、わずか1週間後のことだった。