9月2日午後2時30分、東京の町外れに当たる墨田区。荒川に架かる木根川橋の下の草地に用意されたステージに、20代・30代の日本の若者16人が立った。マイクを前に置き、関東大震災当時の朝鮮人虐殺を目撃した日本人らの証言を朗読した。「両親と子どもが一緒に並んで座っていたが、刀で刺されて死んだ。見るに忍びなかった」(埼玉県の元巡査、アライ・ケンジロウ)のような目撃談を読み上げる若者たちの声は、時には震えることもあった。「女を殺した」(東京都江東区の亀戸警察署で働いていた羅丸山〈ナ・ファンサン〉の証言)という証言の朗読では、およそ600人の参加者の間から嘆息が漏れた。
100年前の1923年9月、数多くの朝鮮人が虐殺された荒川の堤防で「関東大震災100年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」が開かれた。関東一帯を覆したマグニチュード7.9(推定)の大地震で10万5000人が死亡・行方不明になるという、日本史上最悪の災害だった。当時、「朝鮮人が暴動を起こした」という流言飛語を信じた日本人が数多くの朝鮮人を虐殺した。
虐殺現場の一つである荒川の堤防で、日本の市民団体「ほうせんか」が9月2日に追悼式を開いた。「ほうせんか」は、1982年から毎年9月に追悼式を開いてきた。だが今年の行事は、70代・80代となった「ほうせんか」の昔のメンバーではなく、20代・30代の若者たちが作った「百年」という新しい組織が準備した。「ほうせんか」が、朝鮮人虐殺を追悼する若者を一人ずつ訪ね、「100年追悼行事」の準備を頼んだのだ。この追悼式は日本・韓国・北朝鮮などどこの政府とも関係のない、純粋に日本の市民団体の行事だった。青年らの集まりである「百年」は、「ひゃくねん」とは読まず、韓国式に「ペンニョン」と読む。
「死んだ人は語ることができません。私たちは、殺害されたあなたの名前すら知りません。100年前にここにいたあなたは誰ですか。来年もここであなたと会いたいです」。朗読会の司会者は「今、私たちはここにいて、あなたも確実にこの場所にいた」と語った。「百年」側は、当時の犠牲者はほとんど名前・本籍を知ることができないものの5人が記録に残っているとして、京畿道出身の朴庚得(パク・キョンドゥク)さん、全羅南道出身の金在根(キム・ジェグン)さん、いずれも済州島出身の趙妙城(チョ・ミョソン)さん、趙正洙(チョ・ジョンス)さん、趙正夏(チョ・ジョンハ)さんという5人の身元を明らかにした。「百年」メンバーのワタナベ・シュウさんは「100年前の過去を現在につなぐための活動をしようと思う」、アサノ・モエさんは「殺す側に立つのではなく、差別に立ち向かう(日本)社会をつくりたい」と語った。また別のメンバーは「(第2次大戦当時の)原子爆弾の被害は『きのこ雲』のようなイメージがあるが、(朝鮮人)虐殺は学校で習った記憶すらない」と語った。