■「本当に恐ろしいのは原爆以降の社会」
張本さんは「本当に恐ろしいのは原爆以降の社会でした」と言った。「被爆者は韓国人であれ、日本人であれ、日本社会で差別されました。原爆によって手脚がなくなったり、やけどを負ったりした子どもたちとは遊んでくれませんでした。親たちが『被爆も伝染病のように移る』と考えていたからです」。張本さんはプロ野球選手を引退して60歳を過ぎるまで、被爆者であることを公表していなかった。「人が焼けるにおい」を思い出すのが怖く、被爆の記憶がよみがえりそうになるとバットを振ったという。2000年代半ば、日本の番組を見ていた時、若い人々が「原爆が落ちた地点を見物したい」と言うのを聞いて激怒した。2006年8月15日の終戦の日に日本のある番組に出演し、「我々の世代は戦争を、そして原爆の体験を後世に残すべきです」と語った。
一日のうち1食分は水を飲んでしのいでいたころ、張本さんは兄・世烈(セヨル)さんのおかげで大阪の高校に入学して野球選手になる夢をはぐくむことができた。タクシー運転手をして月3万3000円を稼ぎ、1万円を弟に毎月送った。母親ははじめこそ反対したものの、最終的には家族全員から応援されて大阪の浪華商業高校=現:大阪体育大学浪商高校=の4番打者としてプレーした。
張本さんは「韓国は世界で一番いい国です。一度も韓国人であることを隠したことのない人生を送ってきました」と言った。そして、「(自身が)中学・高校のころまでは日本社会で韓国人がいじめられましたが、私は野球をしていたからか、ほとんど差別されませんでした。だから韓国人だという感覚がむしろありませんでした」と話した。
張本さんを「韓国人」だと自覚させてくれたのは母親だった。18歳の張本さんを、日本プロ野球チームの東映フライヤーズ=現:北海道日本ハムファイターズ=がスカウトした。だが、問題があった。日本のプロ野球チームでは「外国人選手は2人まで」という規定になっていたが、東映には既に米国人選手が2人いたのだ。そこで、東映のオーナーは養子縁組を提案した。日本国籍に「ロンダリング(洗浄)」しようということだった。「球団オーナーの話を伝えたら、母に『もういい。野球をやめなさい。祖国を売ってまで野球選手になる必要はない』ときっぱり言われました。東映は結局、日本野球機構に圧力をかけ、「1945年以前の日本生まれの選手は例外」という規定を追加させて張本さんを入団させた。
張本さんは「その日の夜、母は『日本は武器と人が多いから韓国が負けただけで、同じ武器だったら負けていなかった。韓国はこれから負けたらだめだ』と言いました。その時、母が『朝鮮半島』の強い女性だということを知りました」と話した。息子のすべてだった野球よりも、うんざりするような貧しさから抜け出すよりも、母親にとっては祖国の方が大切だったのだ。1980年に張本さんが3000安打という大記録を打ち立てた時、母親の朴順分(パク・スンブン)さんは張本さんが当時所属していたロッテオリオンズの本拠地・川崎球場にチマチョゴリ(韓服)を着てやって来た。張本さんは「母はいつもチマチョゴリしか着ない韓国の母親」と言った。張本さんの日本プロ野球歴代最多安打記録は今も破られていない。イチロー(鈴木一朗)選手が米大リーグで活動していた2009年に日米通算安打数で張本さんの記録を上回っただけだ。
1959年から23年間プロ野球選手として生きてきた張本さんが、身をもって日本の差別を受けた出来事がある。日本最高の野球チームとされる読売ジャイアンツ(巨人)に所属していた時に通算2961安打となり、新記録達成まであと39安打となった時点で、ロッテにトレードされたのだ。「日本の自尊心」である巨人では「韓国国籍者」が大記録を達成することを望まなかったのだ。