張本さんは1940年6月19日、広島市内で生まれた。両親は慶尚南道昌寧郡大合面の出身だ。1939年に母親が兄1人と姉2人を連れて広島に来た。お金を稼ぎに日本に来た父親について来たのだ。その後、父親は帰国して病死し、家族は故郷に帰らず日本に定住した。
原爆による3000℃を超える熱で完全に破壊されたり全焼したりした家屋は広島だけで5万2000軒に達した。爆心地から直径1.2キロメートルの区域に住んでいた人々の半数が死亡した。白血球減少など被爆の後障害で、1945年末までに広島の人口の40%に当たる約14万人が亡くなった。張本さんは「熱が体を焼き、人々の顔や手の形が変わった。人間の肌や肉が焼けたにおいはひどいものだった。熱気のせいで多くの人々が畑に行く途中にある小さな川に飛び込んだが、みんな死んだ」と話した。
その日、張本さんの家族も全員無事という願いはかなわなかった。張本さんは「いつも自慢に思っていた、肌が白く背の高い小学6年生の長姉を亡くしました」と言った。「原爆が投下された時、(張本さんと母親・次姉がいた自宅ではなく)長姉は数十人の子どもたちと一緒に学校で倒れました。母親は熱で溶けて顔も分からない子どもたちの中から名札を頼りに姉を探しました。姉は色白で、一緒に道を歩いているとみんなに『きれいだ』と言われていたのに…。その顔がただれてしまい、見分けもつきませんでした」
全身にやけどを負った長姉は再会を果たした翌日、この世を去った。張本さんは「母親に『姉はいつ死んだのか』と尋ねたが、何も答えなかった」と話した。「明け方に(母親が)号泣する声が聞こえたから、多分その時だったのでしょう。『地獄という世界があるのなら、その瞬間こそまさにそうだった』と今でも思います」。A・B・C・D等級に分類された被爆者健康手帳(広島・長崎の原爆被爆者に日本政府が交付する手帳)にはA等級と記されている。張本さんは「原爆投下地点から1キロメートル以内にいたという意味です」「大体2-3キロメートル離れていた人々はほとんど死にましたが、私は助かりました。運命というのは恐ろしいものです」と言った。裕福でなかった張本さん一家は江戸時代(1603-1868年)からあった、山の中腹の奥まった集落で暮らしていた。その山が原爆の放射能と熱を防いでくれたのだ。
成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長