趙瑪利亜の2回目の「伝言」は、年が改まった1910年2月1日にあったというのが米州新韓民報の同年3月10日付の報道です。都珍淳教授が最近探し出したものです。韓国人弁護士アン・ビョンチャンは、旅順地方裁判所から公判の弁護を拒否された後、安重根と面会し、趙瑪利亜のこのような言葉を伝えたといいます。「おまえが国のためにこそ今の境遇に至ったとあらば、死しても光栄であろうが、母子はこの世で再び会うことはできないので、定離(別れるものと定められていること)においていかにすべきか」。最初の伝言で述べたように息子が罪を犯したと考えつつも、そのことが国のためだったのは理解しており、二度と会えないだろうと感じている、というのです。
【写真】ミュージカル『英雄』での伊藤博文暗殺シーン(写真=ACOM)
3回目の伝言は、安重根が死刑宣告を受ける前日の2月13日、再び面会に来た二人の弟が伝えた母の言葉で、同日の満州日日新聞に載りました。「結局、死刑の言い渡しを受けたならば潔く死に、名門の名を汚さぬよう、速やかに天の神の元へ召されるべき」。記事は「力強い父母の心に検察官も暗涙にむせた」と書きました。ここでの「名門」とは、伝統的な両班名家という意味ではなく、黄海道一帯の天主教信者を急激に増やすことに貢献した「カトリックの名門」という意味だ-と都珍淳教授は解釈しています。やはり、最初の伝言と同じで「死によって贖罪(しょくざい)せよ」という意味になるのです。
趙瑪利亜の「伝言」はこの3種類が全てです。他にはありません。
韓国人がよく知っている(a)の大部分を占める内容、「朝鮮人全体の公憤を背負った」「大義に死することが孝道」「正しいこと」「笑い者」「不孝」などの内容はどこにも見当たりません。「孝」や「義」についての言及そのものがないのです。
では、趙瑪利亜が息子へ送った手紙は?
そう。どこにも、全く見られません。「伝言」があるだけで、手紙はなかったのです。
ならば「手紙があった」という話はいつ出現するに至ったのでしょうか。
■1次操作:斎藤泰彦『わが心の安重根』
都珍淳教授は、こう語ります。「手紙の調査によれば、安重根義挙当時から趙瑪利亜に対し愛国的にあがめる動きがあったが、上で言及された手紙は登場しない。これが広範囲に登場するのは比較的最近、2010年前後だ。その元祖を追跡し、挙げていくと…」
先に触れた本、日本の宮城県栗原市、大林寺住職・斎藤泰彦氏の著書、1994年に出版された『わが心の安重根』だったのです。斎藤氏は東北大学仏文科を卒業し、朝日新聞の記者として活動したといいます。
斎藤氏が書いた『わが心の安重根』は、安重根が旅順監獄に収監されていた際の、日本人看守・千葉十七(1885-1934)と安重根の縁を中心に記した本です。しかし斎藤氏は1935年生まれで、千葉氏と会って証言を聞くことはできないため、本の信ぴょう性には当然疑問があります。しかも、趙瑪利亜の伝言が安重根の死刑宣告「以後」に行われたという誤った記述と共に、この伝言を著書でこのように記しました。