まず、手紙として知られている(a)の実体と出典は非常にあいまいものでした。2016年、この手紙について「伝えられている物語にすぎず、実際の記録として残されたものではない」という報道もありましたが、いつ、どういったルートで伝えられたものなのかは言及がありませんでした。
ところが2019年3月7日、ネットメディア「ニューストップ」に意外な記事が載りました。イスラムの専門家、キム・ドンムン氏が書いた記事です。手紙(a)が最初に登場した資料は、日本の大林寺の住職、斎藤泰彦(たいけん)氏が書いて1994年1月に出版した『わが心の安重根』だったというのです。この記事は「オンラインや日常において回覧されている趙瑪利亜女史の手紙は、日本人の斎藤泰彦住職を通して唯一伝えられた口説にすぎない」という結論を下しました。
斎藤氏は何を根拠に、あのような手紙の内容を本に書いたのでしょうか。少し前に、金薫(キム・フン)の小説『ハルビン』が安重根を歪曲(わいきょく)していると論文を書いて批判した、学界の安重根専門家で韓国近現代史学者の都珍淳(ト・ジンスン)昌原大学教授に電話をかけました。都教授は、ちょうど映画『英雄』を鑑賞した直後、問題は深刻だと考えて「趙瑪利亜の手紙」をテーマに論文を書き、「歴史批評」に投稿したと言いました。
論文のタイトルは「安重根の母親・趙瑪利亜の〈手紙〉と〈伝言〉、操作と実体」です。趙瑪利亜の手紙の真偽を巡る問題について、学界初の論文だと言えます。今回、この未発表論文の内容が何なのか、分析してみたいと思います。
■趙瑪利亜、三つの「伝言」の実体
安重根がハルビンで伊藤博文を暗殺したのは1909年10月26日でした。弟の安定根(アン・ジョングン)、安恭根(アン・コングン)が安重根と初めて面会した日は12月23日で、ここで母親・趙瑪利亜の「伝言」を伝えました。この面会の光景は、12月24日付大阪毎日新聞が初めて報じ、この日本語の記事を翻訳して28日に皇城新聞、29日に大韓毎日申報が同じ内容を報じました。その内容はこういうものです。
「兄弟間で対面したとき、末弟・安恭根が正気を失い痛哭(つうこく)し、豪胆な兄・安重根も突然血が胸に満ちるかのように上気した表情を見せたが、少しばかりして3兄弟はどうにか気を取り直した。弟二人は母の送った十字架を取り出し、兄・安重根の目の上に頂いて母の『伝言』であるとし…」
弟二人は明らかに、母の書いた手紙を持っていませんでした。伝言、すなわち母親・趙瑪利亜の言葉を兄・安重根に伝えただけです。続いて出てくる趙瑪利亜の伝言こそはまさに…
上で言及した(b)の内容でした。現世で再び会うことを願わず、おまえは刑に服して速やかに現生の罪悪を償った後、次の世では必ず善良なる天父の息子となり、世に再びいでよと。そして神父さまが代わりにざんげをささげると。
この言葉を聞いた安重根が驚いたとか失望したという記録はありません。「誓って、教会の法度にのっとり、信徒の資格と臣子の道理において醜態を見せず、最後を迎えるつもりなので、お母さまは安心なさいますよう」と答えたといいます。
兪碩在(ユ・ソクチェ)記者