1984年には第二電電という長距離電話会社を設立、日本の通信市場を独占したNTTに挑んだ。その後、同社はKDDや日本移動通信と合併して、日本で現在2位の通信会社KDDIとなった。2005年に京セラの経営の第一線から退き、78歳だった2010年にJALの会長に就任した。日本のフラグシップ・キャリアであるJALが経営破たんするや、当時の鳩山由紀夫首相の要請を受け入れたものだ。
無報酬で会長に就任した稲盛氏は全従業員の3分の1に達する1万6000人のリストラを断行した。すると3年をたたずしてJALは黒字転換し、2012年に東京証券市場に再上場させた。JAL改革当時、空港カウンターの女性社員が稲盛氏の前で月2000円のコスト削減効果を発表したエピソードが有名だ。ほかの役員たちは少なすぎる金額に戸惑ったが、稲盛氏はとても喜んだ。主人公であるという意識を持って努力したその社員の情熱の方が金額よりはるかに重要だというのが稲盛氏の経営哲学だった。
政治的には、日本の長期執権与党である自民党ではなく野党を支援し続けた。「日本を良くするには政権交代が可能な国でなければならない」というのが信念だった。1990年代から野党の後援者として活動した。だが、2009年、民主党が政権交代に成功したものの、その国政にひどく落胆したという。
最後の役職は京セラ名誉会長、KDDI最高顧問、JAL名誉顧問だ。KDDIの田中孝司会長は同日、「『人間として何が正しいか』を座標軸に据えた経営哲学の教えを受けたことはかけがえのない財産だ」と語った。JALは「卓越したリーダーシップで構造改革と意識改革を進め、再生へと導いていただいた」「貢献と功績に感謝する」と述べた。
韓国との縁も深い。創業する直前の1958年、「韓国農業の父」禹長春博士の四女・朝子さんと結婚して3人の娘がいる。朴智星(パク・チソン)が2000年、日本のプロサッカーリーグであるJリーグの京都パープルサンガに入団した時、京セラは同チームのメインスポンサー企業でもあった。
東京=ソン・ホチョル特派員