3歳の時にポリオ(小児まひ)にかかった黄氏は、体が不自由なため小学校入学を拒否されたという悲痛な経験がある。当時の日本人校長が校長室の床にチョークで約1メートルの線を引き、「飛び越えみろ」と要求したという。歩くこともままならず、母親におぶさっていた少女はひどく傷付き、その場で泣いてしまったとのことだ。
翌年の解放(日本による植民地支配からの解放、日本の終戦)で黄氏はその学校に入った。その後、苦労しながらも努力して学業にまい進した末、梨花女子大学を卒業、セブランス病院で韓国初の障害者女性医師(小児科)として働いた。さらに、28歳にして韓国小児まひ児童特殊保育協会を設立した。韓国初の障害者リハビリ・福祉施設である正立会館建設(1975年)を主導し、館長を務めた。
1988年には国内出版メディアから贈られた「今日の女性賞」の賞金200万ウォン(現在のレートで約19万円)をソウルパラリンピック準備委員会に寄付した。これが「ファン・ヨンデ功績賞」設立のきっかけになった。当初は「克服賞」という名称だったが、2008年の北京パラリンピックから「功績賞」に変わり、閉会式の公式行事になった。パラリンピック精神を最もよく具現していると評価された選手2人(男女1人ずつ)に黄氏が75グラムの純金でできたメダルを授与した。事業費には政府をはじめとする各界の支援金や黄氏の家族の私財が当てられてきた。