838年に最後の使節団が日本をたった後、1862年に日本代表が上海に到着するまで、中日関係は基本的に商人が引っ張る貿易を軸として回っていった。1403年から1547年まで遣明船が派遣され朝貢使節が往来したが、その後、公式接触は途絶えた。両国の関係は、1894年の日清戦争を迎えて劇的に変わった。中国は官僚や留学生を日本へ送り、明治日本の開発経験を学ぼうとした。毎年数百人の官僚が日本を訪れ、数百人の日本人教師やアドバイザーが中国で活動した。1937年までにおよそ5万人の留学生が海を渡った。中日関係を破綻に追いやったのは1931年の満州事変と、37年に始まった日中戦争だった。
1972年9月27日、田中角栄首相が北京で周恩来首相と会談したことで変化が始まった。78年のトウ小平訪日は交流の水門を開けた。トウ小平は、公式な平和友好条約の文書交換と共に、秦の始皇帝時代に徐福が求めた「霊薬」を探しに来た、と語った。その霊薬とは現代化を実現する秘訣(ひけつ)だと説明した。東アジアでは2000年前の歴史が現代とつながっている。日本政府が引き留めたにもかかわらず、トウ小平が自宅軟禁状態の田中角栄を訪問したことも注目に値する。田中角栄はロッキード事件の汚職スキャンダルで検察の捜査を受けている最中だった。田中角栄と会ったトウ小平は「水を飲むとき、井戸を掘った人々のことを忘れることはできない」と語った。トウ小平は、両国関係改善のため田中角栄が努力したことを覚えており、謝意を表した。