ミャンマー軍政のルーツには日本の「スパイ学校」があった

スパイ養成所「中野学校」を分析
1940年代、西欧に支配されていた東南アジアで活動
アウンサンに軍事訓練法を伝授し、ビルマ独立義勇軍の指導者として育てる

 石油不足は日本のアキレス腱(けん)だった。当時世界最大の油田地帯に挙げられていた、オランダ領スマトラ島のパレンバンを掌握しなければならなかった。星野鉄一少尉は、中野学校でインドネシアの公用語であるマレー語を学んだ。42年2月14日、空挺(くうてい)部隊と共に降下した星野少尉は、製油施設を守っていたインドネシア軍に「オランダ軍だけが日本軍の敵だ。われわれはインドネシア人の友」と叫んだ。日本はオランダ軍が製油施設を爆破する隙を与えず、施設を確保した。

 戦争当時、英領ビルマは連合国が蒋介石政権に物資を送るルートだった。責任者である鈴木敬司大佐の偽名(南益世)にちなんだ「南機関」は41年後半、ビルマに武器や要員を送り込むゲリラ作戦に着手した。中野学校を卒業したばかりの山本政義中尉ら5人が中心だった。南機関が訓練したアウンサンはビルマに潜入し、3万人近い兵力を擁するビルマ独立義勇軍の指導者として台頭した。しかし日本の軍部はビルマを軍政下に置いた。怒ったアウンサンは日本に反旗を翻した。連合軍の攻撃とビルマ人の反乱に直面した日本は手を挙げるしかなかった。

■戦後の「影の戦士」

 中野学校出身の情報要員らは敗戦後、日本の生存にも寄与した。彼らが確保した満州やシベリアの地形情報は占領者である米軍との交渉で有用な「てこ」として活用された。48年11月、マッカーサーの司令部は清津、元山、平壌付近の地域に要員を投入し、ソ連軍の現況を偵察した。このチームに、少なくとも1人の中野学校出身のベテランが含まれていた。仁川上陸作戦でも、中野学校を支援した研究所の出身者らが作った北朝鮮軍の偽装制服や偽造文書が、潜入作戦の必須の品として使われた。影の戦士たちは政界や企業、社会団体でも猛烈な活躍を見せた。

 中野学校出身者で最も有名な人物は、1974年3月にフィリピンのルバング島で見つかった日本軍最後の敗残将兵、小野田寛郎少尉だろう。小銃をしっかり握って背のうをかつぎ、「気を付け」の姿勢でかつての上官の前に立ち、任務中止命令を受ける写真が断然目を引く。国民の英雄として帰還した小野田少尉は、戦後日本で希薄になりつつあった愛国心と使命感の象徴へと浮上した。

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