1950年代末、中国・毛沢東の経済実験「大躍進運動」の失敗で4000万人が死んだ。文化大革命の犠牲者はその10分の1程度だろう。それでも中国の人々は、文革の嵐が一番ひどかったという。なぜだろうか。
50年前の文革の時に振るった暴力を、遅ればせながら反省する元紅衛兵が次々と登場している。代表的な人物が1966年に天安門広場で毛沢東の腕に赤い腕章を巻いた女性・宋彬彬だ。紅衛兵100万人が同広場で歓喜する写真が人民日報1面に掲載されたのをきっかけに、文革は爆発的に広がった。当時、自身の学校の教頭をたたき殺した宋彬彬は「ずっとつらく、後悔した」と言った。しかし、1200万人の紅衛兵全員が過去を後悔しているわけではない。文革の導火線となった壁新聞を書いた北京大学講師の聶元梓は数年前、「私は後悔することが全くなかった。党の要求を実行しただけだ」と言った。やや過激だったが、「毛沢東守護」と「右派清算」のための正当な行為だったというのが相当数の紅衛兵たちの考えだという。
一方、文革の被害者たちは、今でも悪夢にさいなまれている。一言の過ちで「愚か者の帽子」をかぶせられ、あちこち引き回されてさらし者になった記憶から逃れられず、発言に用心して生きるのがクセになった。自身が受けた苦痛を直接告発するのも難しい。共産党有力者となった紅衛兵が少なくないからだ。だから小説や映画の形式を借りることがある。人気を呼んだ小説『陸犯焉識』は10年間奥地に追いやられていた教授が戻ってきてみたら、妻が彼のことを覚えていなかったという物語だ。これが映画になったのが張芸謀(チャン・イーモウ)監督の『帰来』=日本語タイトル『妻への家路』=だ。海外で共産党の攻撃の先頭に立つ反体制派になったケースもある。文革の紅衛兵が残した傷にはまだ血がにじんでいる。
毛沢東は「同志と敵の区別が革命で最も重要な問題だ」と扇動した。自分の経済実験を批判したり、理念より実用性を前面に出したりしたら、誰でも「敵」だとした。宣伝機関は「すべての怪物と悪魔をえぐり出せ」と火に油を注いだ。誰かが壁新聞「大字報」で「照準」を合わせると、紅衛兵が集団リンチを加えた。「6・25(朝鮮戦争)司令官」彭徳懐も暴行を受けた。道路の信号の赤が停止信号であることも「右派思考だ」と変えようとした。「革命」と「敵」というスローガンの中で狂気が光っていた。中国の歴史は丸ごと後退した。