10年前に京都で初めて朝鮮人留学生の名簿に接した鄭鍾賢(チョン・ジョンヒョン)仁荷大学教授は、その後、帝国大学で学んだ朝鮮人の留学の実態と、植民地朝鮮および解放後の祖国に及ぼした影響を追跡し、本書を著した。鄭教授が見つけ出した資料によると、日本統治下の朝鮮の青年およそ1000人が、帝国大学に入るため日本本土へ渡ったと推定され、このうち784人が東京・京都・東北・九州など本土の七帝大を卒業した。帝大は京城と台北にも作られたが、朝鮮の青年たちは日本留学を好んだ。彼らは「朝鮮人謝絶」と書きつけられた下宿屋の前で鬱憤(うっぷん)を堪えつつ学んだ。
植民地からやって来た留学生たちにとって、日本は巨大な矛盾の塊だった。留学生らは抗日と親日に分かれたり、あるいは解放されるまで二つの路線の間で曲芸を行ったりした。仁村・金性洙(キム・ソンス)の弟キム・ヨンスも、そうした人物の一人だ。1911年に15歳で関釜連絡船に乗った彼は、21年に朝鮮人として初めて京都帝大経済学部を卒業し、戻ってきた。京城紡織の第2代社長として満州まで事業を拡張、成功した民族実業家となり、利潤を社会に還元した。しかし太平洋戦争末期に日本が強要した各種の肩書や献金、そして学徒兵勧誘に動員されたことで解放後は反民族行為特別調査委員会(反民特委)に拘束され、無罪放免されるという苦難も味わった。一方、同じく京都帝大の史学科に通っていた宋夢奎(ソン・モンギュ)は卒業できずに獄死した。