しかし、政策は逆行していた。先駆的な官僚を排除した。王権と神権の調和という朝鮮の伝統もこの時代に途絶えた。勤王勢力を巻き込んで、「大皇帝陛下」はあらゆることを統率した。貨幣鋳造権をはじめとする国家財政を王室に集めた。前近代的「家産国家」に転落し、財政が破たんした。王権に対抗する意見を容認しなかった。西洋式近代国家とは正反対の道をひた走ったのだ。富国強兵は夢に終わった。他人のせいではない。
高宗が日帝を避けて列強諸国の公使館の横に新宮殿を建てていた時、列強諸国は何をしていたのだろうか。英国は日本と同盟を結び、ロシアは日本と朝鮮の分割を論じ、米国は日本の朝鮮支配を容認していた。世間の流れを一足遅れで知った大韓帝国が「戦時中立」を宣言したのは、日露戦争直前の1904年1月21日だった。この宣言の効力は2月23日の強圧的な同盟(韓日議定書)で終わった。宣言から33日目のことだ。翌年、乙巳条約(日本では第二次日韓協約)が米公使館隣の徳寿宮重明殿で締結された。外交権が渡ってしまうと、米公使は日帝にお祝いの言葉を残して去った。宣教師ホーマー・ハルバートは「米国は別れのあいさつもなしに、最も侮辱的な方法で真っ先に韓国を捨てた」と言った。
徳寿宮の復元は歓迎する。しかし、建物よりも記憶の復元の方が必要だ。この時代に必要なのは、力のない国の政治的「あがき」がどれだけむなしいものかを証明する「徳寿宮時代」の教訓だ。すべてを「日帝のせい」にして建物の工事にばかり力を入れるなら、公園の一画をちょっと広くするだけの作業に過ぎない。
社会部=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)部長