【コラム】徳寿宮復元、「日帝残滓」清算より大切なこと

 朝鮮王宮の特徴の1つは、末期にいっそう大きく、華やかになっていったことだ。興宣大院君の景福宮再建が経済と民生にどれだけ悪影響を及ぼしたかはよく知られている。30年後に景福宮を捨てて徳寿宮(当時の名称は慶運宮)を拡張した。宮殿建築に使う木材を供給するため苦難を強いられた江原道寧越の人々のことが歴史書に記録されている。「朝鮮は宮殿を建てているうちに滅んだ」とも言われる。この朝鮮宮殿拡張史の頂点にあるのが、復元が決まった徳寿宮璿源殿区域だ。

 徳寿宮は朝鮮宮殿のうち規模が最も小さいが、教訓は最も大きい宮殿だ。それも失敗の教訓である。ところが、「規模」を復元するだけで「教訓」は復元されない。「日帝のせい」という言葉で済まされているに過ぎない。

 徳寿宮は世界のどの国の宮殿にも見られない特異な構造になっている。米公使館(現・米国大使官邸)は宮殿の中にあった。北西にはロシア公使館、東には英国公使館があった。貞洞道の向かいにはフランス公使館があった。日帝を阻むために高宗が考えた構造だ。列強諸国の保護を受けたいと思ったからだ。そのような意味で、徳寿宮は「日帝のせいで完成した宮殿であり、日本のせいで解体された宮殿」であることには違いない。

 列強諸国を前後に配置した高宗は、宮殿の所々に「中立」の意志を込めていた。朝鮮宮殿の正殿は普通、景福宮の「勤政殿」や昌徳宮の「仁政殿」のように善政を誓う名前を付ける。だが、徳寿宮の正殿だけは中立の意志を込めた「中和殿」という名前だ。中立というものは自らを守れる力を持つ国だけに可能なことだ。高宗も富国強兵のためには西欧式改革が必要なことを知っていた。だからそうした願望を表現しようと新たな正殿を作った。西欧式宮殿の徳寿宮「石造殿」だ。建物で表現された高宗の生き残りに対する意識はそれほど強かった。

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