24年前の夏のことだ。その年のヨーロッパの空気は重苦しかった。名称もない、ただの米朝会談がスイスのジュネーブで退屈そうに行われた。米国代表はロバート・ガルーチ国務次官補、北朝鮮代表は姜錫柱(カン・ソクチュ)外務次官だった。当時の駐フランス特派員がジュネーブ取材をカバーした。私たちはモーベンピック・ホテルに泊まった。会談は米朝代表部の建物で交互に行われた。両国代表団は昼食を共にしたり、カクテル・レセプションを開いたりした。記者たちは代表部の外の道をうろうろしていた。
北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)の査察には原則がないと粘った。米国は北朝鮮が4カ月前に脱退宣言した核拡散防止条約(NPT)に復帰することを望んだ。記事は書いたが、あいまいだった。韓国人記者には直接の取材源がなかった。ガルーチ氏は口を閉ざした。「韓国代表部に聞け」ということだ。姜錫柱氏は「朝鮮半島の核問題全般について話し合った」としか言わなかった。
その日の晩、米国が韓国を別個に呼んで背景を説明した。そして、米国代表部から帰ってきた韓国の官僚が初めて記者に説明した。我々はフィルターを2回通された情報を耳で覚えた。論理的なつながりがない、断片的な情報が横行した。韓国は韓半島(朝鮮半島)安保の「直接の当事者」でありながら、「第三者」でもあるという二重構造に陥っていた。北朝鮮公館の会談会場を離れる時、ヨーロッパの記者たちは「どうなったんだ?」と韓国人記者の袖を引っ張った。とても「我々も第三者なんだ」とは言えなかった。
米国は1960年代、ヨーロッパ諸国に核を配備した。そして、弾道ミサイル発射の特殊な鍵とパスワードを共有した。それでもフランスは1960年にサハラ砂漠で核実験を強行した。数年後、フランスは北大西洋条約機構(NATO)統合司令部を脱退した。米国の核の傘の下にいた周辺国は、フランスに「なぜ独自の核抑止力が必要なのか」と尋ねた。すると、当時のドゴール仏大統領は「そうしなければ、我々は軍縮会談に招待されないじゃないか」と言い放った。