「核は非人道性の極致」「長崎、生き残る苦しみ」…。ここ数日、日本の各紙は原爆投下70年に合わせ、先を争って特集記事を掲載している。1945年8月6日に広島、9日に長崎へ投下された原子爆弾で、それぞれ14万人、7万人が命を失い、「無条件降伏」を受け入れるしかなくなった日本としては、痛い記憶なのだろう。1、2発の爆弾でこれほど多くの命が一瞬のうちに失われることもあり得るという事実は悲劇で、二度と繰り返してはならない。しかし、侵略戦争を起こし、中国や韓国をはじめ、アジアで1000万人を越える死者を出した加害者・日本が「原爆被害国」として「犠牲者」のように振る舞うのは、どこかしっくりこなかった。
同時通訳者にして作家でもあり、韓国にも固定ファンが非常多い米原万里の著書『魔女の1ダース』には、こんな話が出てくる。90年に東京で開かれたシンポジウムの通訳を務めていたときに経験したことだという。45年、ソ連軍が満州に進駐し、軍人を含む日本人60万人が抑留された。ソ連は抑留者をシベリアに連行し、長いケースでは10年間も強制労働をさせ、6万人が命を失った。ソ連は、ゴルバチョフ登場後にようやく抑留者問題に関心を持つジェスチャーをみせ、赤十字や歴史学者からなる代表団を送って対話をスタートさせた。
シンポジウムの途中、ソ連の歴史学者が抑留者問題の端緒となった経緯を報告する際に、ソ連軍が満州に「入っていった」と表現した途端、事件が起こった。ある出席者が「日ソ中立条約を勝手に破っておいて、『入っていった』とは何だ」と揶揄して会場内は収拾がつかなくなり、騒がしくなった、ソ連の歴史学者は、あきれたというように見守っていたが、マイクをつかんだ。「うるさい! ならそのとき、あなた方はどこにいたのか。寝室にいたのか。満州があなた方の土地だというでもいうのか」。この一言で、ハチの巣をつついたようだった会場は、水を打ったように静まり返った。米原万里は、バランス感覚を欠いて自分の立場でしか物を考えない一部の日本人の厚かましさを、こういう形で皮肉った。