茶山・丁若鏞(チョン・ヤギョン)は100年先を見通した。1817年に著した『経世遺表』において「今、改革しなければ国は必ず滅ぶ」とつづった。本の原題は「邦礼草本」だ。くに(邦)の礼についての本、という意味になる。序文にこう記した。「ここで論じるのは法だ。法でありつつ礼と称する理由は何か。いにしえの聖王は礼で国を治め、礼で民を導いた。礼が衰退するや、法という名が生じた。法は国を治めるものでも、民を導くものでもない」
『論語』によると、礼とは手続きを守ることに尽きる。孔子は太廟(たいびょう、宗廟)に入ると、祭祀(さいし)の手続きについて尋ね続けた。ある人が、孔子をあざけった。「誰が、孔子は礼をよく知っていると言ったのか。(手続きを)尋ね続けていたじゃないか」。孔子は言った。「それ(そのように尋ねること)が礼なのだ」(『論語』八佾第三・三之十五)。21世紀にもなって孔子様のお言葉かね、と思うか? 現代の政治学者、ハーバード大学のスティーブン・レビツキー教授、ダニエル・ジブラット教授の語る民主主義の規範とも通じる。両教授は、相手を認める「相互寛容」、法的権限を慎重に用いる「制度的自制」を民主主義の核心に挙げた。
1987年以降、直選大統領の口から「戒厳」という言葉が出るとは想像もしなかった。自らどれほど適法を主張しても、国民に対する礼ではなかった。だから国会で弾劾案が議決されたのだ。しかし、史上初の現職大統領逮捕・勾留へと至る過程、その後の裁判所乱入と暴力行為は、果たして手続きに基づくものなのか。互いに適法だと主張し、法を無化する状況にあるとき、いっそう慎重に守るべきものは手続きのみだ。弾劾案が憲裁に渡ったのだから、慎重に手続きにのっとって決定を待つことはできないのか。茶山のような先覚者であれば、この無法無礼を何と言うだろうか。
李漢洙(イ・ハンス)記者