慶尚南道陜川郡の原爆被害者福祉会館を初めて訪れたのは、大学生だった2018年8月のことだ。太平洋戦争末期の1945年8月、米軍による広島と長崎への原爆投下当時に被爆した韓国人たちが住んでいる所だ。訪問前までは韓国人被爆者がいるということも知らなかった。「被爆1世」の老人たちに原爆投下当時の話を聞いた時は悲しみよりも自分の無知さ加減が恥ずかしくなった。一緒に行った日本人の友人が、あるおばあさんの証言を聞きながら涙を流すのを見て、自分の寡聞を責めたりもした。
日本被爆者団体「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」がノーベル平和賞受賞者に選ばれた10月11日、しこりのように残っていた記憶が浮かび上がった。そして15日未明、車で陜川に向かった。6年前に会った高齢者の大半は亡くなっていた。建設当時、約110人の人々が入居していたが、現在生存しているのは67人だという。韓国原爆被害者協会のチョン・ウォンスル会長(81、被爆1世)は「平均年齢が85歳で毎年10-15人ずつ死んでいく」と話した。
同日会った被爆1世の老人たちは、被団協のノーベル平和賞受賞の知らせを知らなかった。ウクライナ、パレスチナのガザ地区で起きている「二つの戦争」のニュースに衝撃を受けるのではないかという配慮から、会館のテレビではニュースをあまり流さない。「6年前に来たその学生」という言葉に孫のように歓待してくれる人々を見て「核戦争の脅威が差し迫っている現在の世の中をどう見ているか」という質問は、到底できなかった。
入居者の中でも健康な方だといわれるキム・ドシクさん(91、男性)は「耳が遠く、質問が聞き取れない」という。取材手帳に「お体お気を付けください」と書いてキムさんにお見せして会館を後にしようとしたところ、壁に貼られてあった絵葉書が目に入った。被爆者たちが今夏、ハングルの勉強時間に書いた「私に送るラブレター」だった。「ギョンナムさん、今まで豊かに暮らしてきたんだから、このまま豊かに暮らそう。我慢してくれてありがとう」「勉強本当にお疲れさま。幸せになってね」といった内容だった。読んだ後、しばらくその場を動くことができなかった。
ノルウェーのノーベル委員会は、被団協の平和賞受賞のニュースを報じ「核兵器のない世界をつくるための努力と証言への功労が認められた」と述べた。同日、チョン会長も同じような話をした。「実はあの日の記憶について証言するのは辛いことです。今になって私たちが何の富貴栄華を望みますか。ただ80年前の私たちのように、何も知らない幼い生命が核戦争によって犠牲になる悲劇の繰り返されないことを願っているだけです。被団協がノーベル賞を受賞したのも同じような理由からだと思います」
今この時間にもロシアとウクライナ、イスラエルとハマス(パレスチナ・イスラム武装組織)の戦場では、罪のない生命が犠牲になっている。「核戦争もやむを得ない」という核保有国からの脅威を最も恐ろしく思うのは、先にこの世を去った被爆者たちではないか。被団協のノーベル平和賞受賞の知らせがあの世まで届いているとすれば、彼らの心を少しでも癒やしてくれることを願う。いつか再び陜川を訪れた時、「ようやく核のない世の中になったね」と、年配の方々と共に喜べる日が来るよう期待する。
キム・ドンヒョン記者