エアコンには長所が多い。温熱疾患の予防をはじめ、産業発展と技術革新、居住可能面積の拡大、医療や保健の増進などに多大な貢献を行っている。しかし、副産物も少なくない。各種の冷房病が代表的だが、環境に優しい建築精神を低下させ、都市過密や乱開発を進めるという点でも害悪は否めない。何より暑さ退治に関して見ると、エアコンは自己矛盾を内包している。気候危機の時代における生存必需品とされてはいるが、使えば使うほどそれを加速化しているためだ。
これらの欠点は、技術の進歩によって、いつかは克服されるかもしれない。問題はむしろ社会文化的レベルにある。エアコンは人類の普遍的宿願を解決したのではなく、特定の時空間の社会的必要性に応じて「歴史的に」登場しただけのことだ。エアコンにより、人類はいつの間にか外気の影響を受けない従順な身体に改造された。そうこうしているうちに、ついに人類は自らエアコン中毒を享有し、消費するに至った。いわゆる「冷房資本主義」は、快適な労働、および生活環境を提供しつつ、それに相応する効率性と成果主義を強迫する社会システムである(Eric Dean Wilson, After Cooling: On Freon, Global Warming, and the Terrible Cost of Comfort)。エアコンが究極的に調節するのは空気ではなく、人なのだ(Stan Cox, Losing Our Cool: Uncomfortable Truths About Our Air-Conditioned World)。
エアコンの時代を迎え、われわれは夏特有の季節感を忘れてしまい、自然を抽象的に経験するようになった。以前は、あまりにも暑い時に昼寝をしたり、早く退勤したり、数日仕事を休んだりしたものだ。汗を流すことも人生の大切な一部だった。しかし、今日われわれは暑さを乗り切る心理的で生物学的な耐性を失いつつある。さらに、エアコンは社会的関係を断絶する。かつての夏の日は外に向かっていた。人々は日陰や庭先、屋上や路地に集まって暑さを共にしのいだ。しかし、エアコン天国の「巣ごもり」、「部屋ごもり」の文化は、人々を島のように分離する。1995年、シカゴに記録的な猛暑が襲った際、生死を分けたのは、エアコンが設置されているかどうかではなかった。鍵となったのは、社会的孤立と地理的断絶だった(Eric Klinenberg, Heat Wave: A Social Autopsy of Disaster in Chicago)。エアコンのなかった時代に戻るのは難しい。しかし、少なくともこうした現実を知った上でエアコンを使おうではないか。
ソウル大学チョン・サンイン名誉教授(社会学)