羅錫疇は手紙で、自決しようとする理由も詳細に明かしていた。「私が自殺しようと思う理由は、あの倭敵の法律はわれわれに正義を与えようと作られたものではなく、不幸にも倭警に生擒(せいきん、生け捕り)されたら、世界にない野蛮的悪刑を与えることは明白であって、不服の意で現場において自殺すると決心しました」。そうして「12月28日 犠牲者羅錫疇拝」と、襲撃日と自分の名を明記した。
既に世を去って語ることのできない当時の人々は、歴史的な流れを無視して過去をむやみに裁断する人々に対し、一言の弁論もできない。羅錫疇が朝鮮日報に送った手紙が後代に伝えられなかったら、当時の記者たちは「十把一からげ」に罵倒されても反論できなかっただろう。幸いにも、手紙は当時の写真記者ムン・チジャン(1900-69)が撮影して保管しており、解放後、事件から21周年の1947年12月28日付の朝鮮日報で報じられ、初めて世に知られた。事件から80周年の2006年には、独立記念館の展示に登場したこともある。
羅錫疇の手紙は、少なくとも当時の新聞社の人々は知っていたはずだ。それでも秘密を守り、その後も外部に漏らさなかったという事実に、むしろ驚かされる。この人々も皆、独立闘争を共に行ったのではないか。見たいものだけを見る人々は絶対に同意しないだろうが、あのように厳しい時代を乗り越えて大韓民国を建てたから今そうして非難する自由も得た、という事実には首肯することを望む。
李漢洙(イ・ハンス)記者