李承晩を「建国大統領」と呼んだら親日派認定するトンデモ基準【8月15日付社説】

 光復会が、「日本の主張の通り植民支配合法化を図る知識人や団体」を「ニューライト」と規定し、9つの「ニューライト判別法」を提示した。「ニューライト」を「親日派」として追い立てていくためだ。9つの判別法全てに問題があると見えるが、特に「李承晩(イ・スンマン)を建国大統領と呼んでいる」という判別基準は荒唐無稽であるとまで思う。この主張の通りであれば、「李承晩建国大統領」を主張したりそういう風に考えたりしている人は皆「親日派」になるわけだ。

【早わかり】「ニューライト=親日派」 光復会の判別法

 光復会と李鍾賛(イ・ジョンチャン)会長は、1919年の臨時政府樹立を建国時点とみなしている。李承晩大統領は1919年の上海臨時政府の初代大統領で、1948年の大韓民国政府の初代大統領でもある。建国時点を1919年と見ていようと、1948年と見ていようと、「建国大統領李承晩」ということに異見はあり得ない。李承晩を建国大統領とみなしたら親日派だというレッテルを張るより先に、李承晩でないなら一体誰が「建国大統領」なのかという答えから示すべきだ。

 光復会は、臨時政府をけなしたらニューライトだと主張するが、その代表的勢力はほかならぬ北朝鮮だ。北は金日成(キム・イルソン)中心の独立運動を主張するため、臨政について「事大主義的売国背族行為」だと歴史書で規定した。一部で持ち上がっている「親日派李承晩」という主張も歪曲(わいきょく)だ。こういう主張をする人々は、韓国の初代内閣で李承晩が親日派を大挙登用したと言うが、副大統領の李始榮(イ・シヨン)、首相の李範奭(イ・ボムソク)、農林長官の曺奉岩(チョ・ボンアム)など、大部分は抗日・独立運動家だった。

 李大統領は腹の底から反日だった。第2次大戦の終結のため米国など連合国と日本が締結したサンフランシスコ条約において、日本が返還をすべき地に独島が含まれていないと分かるや、李承晩は52年1月18日に李承晩ラインと呼ばれる「平和線」を一方的に宣言した。当時、「平和線」宣布と義勇守備隊の独島派遣がなかったら、鬱陵島から50カイリほど離れた「独島」の実効的支配は不可能だった。韓米同盟の基礎を固めた李大統領だが、54年にアイゼンハワー大統領が韓日関係正常化を要求すると会談場から退場してしまった。

 光復会が金亨錫(キム・ヒョンソク)独立記念館長任命を理由として韓国政府を「親日」だと追い立て、ここに進歩(革新)系最大野党の「共に民主党」や野党各党が便乗して「親日追及」に乗り出し、韓国政府の79周年光復節記念式典に光復会と野党各党は参加しないと決めた。大韓民国を否定しようとする勢力の「李承晩=親日派」の主張に光復会がなぜ同調するのか、納得し難い。

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