「歴史遺産」小鹿島【萬物相】

 旧約聖書のレビ記には、ハンセン病に対する人類の長年の恐怖と嫌悪を示す記述がある。この病にかかると、医師はもちろん、患者すら自らを「汚れた者」と呼ばなければならない。世間は、彼らを社会の外に放り出し、永遠に戻ってこられないように不当な嫌疑まで上乗せした。詩人の徐廷柱(ソ・ジョンジュ)は、ハンセン病者が直面した無念の差別とそれによる鬱憤を詩「ムンドゥンイ」(ハンセン病者のこと)でこのようにつづった。「麦畑に月が浮かんだら/赤子一つ食べ/(中略)/花のように赤く夜通し泣いた」

 韓国において、そうした痛みの結晶体が小鹿島だ。1916年に日帝がここに慈恵医院を建てた後、小鹿島は長年にわたり禁断の地だった。陸地との距離は1キロにもならないが、往来は絶えた。患者の待遇改善を要求したものの、およそ80人が虐殺された悲劇の地だった。親子間の垂直感染はないにもかかわらず、強制堕胎や出生後の強制隔離といった人権じゅうりんも続いた。年に1度、体育大会という名目で親子が再会する日になると、島全体が涙の海となった。

 社会から疎外されたのとは異なり、文学や映画においてハンセン病はおなじみの素材だった。極限の状況に耐えて人間愛を表現する作品で主に使われた。映画『ベン・ハー』では、主人公ベン・ハーが復讐(ふくしゅう)心を捨てると、彼の母親と姉はこの病気から解き放たれた。李清俊(イ・チョンジュン)の小説『あなたたちの天国』では、社会の冷遇と偏見に耐えて立ち上がろうとする小鹿島のハンセン病者の奮闘が描かれた。1940年代初めに「完治可能な疾病」になったことで、社会的認識に変化が生じたおかげだった。

 小鹿島は、高貴な人類愛を秘めた島だ。数多くの献身のエピソードがある。その中には、1960年代前半からこの島でハンセン病者の世話をしたオーストリア出身の二人の看護師、マリアンヌとマーガレットもいた。2000年代中盤、老衰してもはやハンセン病者の世話をすることができなくなると、島へ来るときに持ってきた荷物だけをまとめて戻っていった。そのエピソードが最近、ドキュメンタリー映画として製作され、感動を届けた。世界保健機関(WHO)は韓国をハンセン病制圧国に分類している。医術の発展だけでなく、こうした献身があったことで可能だったのだろう。

 韓国政府が、小鹿島を「保護地域」に指定し、国立公園などにする案を推進するという。一般人の出入りが少なかったおかげで維持された自然環境を守り、隔離・治療施設を歴史・文化遺産として保全するつもりなのだ。小鹿島は無知と貧しさ、それによる試行錯誤にまみれた反面教師かつ、大切に守っていくべき人間愛の博物館でもある。ドイツは、アウシュビッツの歴史を後の世代に教える際、そこでほしいままに行われた悪事だけでなく、そこで一人でも救うために努力した義人の生涯も共に教える。小鹿島も、そんな空間になってほしい。

金泰勲(キム・テフン)論説委員

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  • ▲イラスト=李撤元(イ・チョルウォン)

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