平凡な市民である普通の人の「道徳」と、国を救済すべき政治家や公職者の「道徳」は矛盾して見えることがある。2300年前に孟子は「兄嫁の比喩」でこの違いを簡潔に説明した。兄嫁が溺れかけていれば、手だけでなく髪の毛を引っ張ってでも引き上げて助けねばならない。人の命が危険なときは「兄嫁の手を取るべきではない」といったささいな道徳にこだわってはならないという意味だ。しかしこれは日常から兄嫁を好き勝手に取り扱ってもよいという意味ではない。
この点を理解できない人間が実はかなり多い。あるいは口では正義を叫びながら、市民の道徳を何とも思わない人間も多い。壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)が起こる前の450年前にもこのような人間が多かったようだ。「刀を持つ儒学者」と呼ばれる南冥・曺植(チョ・シク)=1501-72=がこれを一喝し「最近はそれなりに学んだはずの人間が手で水をまいて掃き掃除するやり方も知らないくせに、口では天の理致(道理)を語り名を盗み他人を欺いている」と嘆いた。掃き掃除の前に水をまく行為は、ほこりが飛ばないようにして周囲に迷惑をかけない善良さから来るものだ。昔は儒教の経典である「大学」を学ぶ前に子供たちは「小学」を学んだが、この話はその小学に出てくる。小さな学びも知らないくせに、「大きなことを知っている」と叫ぶ人間たちはいつの時代も声だけは大きいようだ。
他人への配慮や寛容、犠牲や尊重などがばかにされる社会は健全ではないし、そのような社会は一定レベル以上の発展はできない。スタープレーヤーが自らの使命を果たし、その背後で目立たなくともチームの他のメンバーがその役割を互いに尊重しながらしっかりと担い、一つのチームとしてチームワークを発揮するとき、「スーパーAクラス」のチームになるのと同じだ。他人に対する侮辱や暴言、不法行為ばかりの人間がスターになるチームは一時的に好調な時があっても長くは続かない。
もう一度最初の横断歩道を渡った子供のことを考えよう。この子は30歳、40歳、50歳になってもその素直さを守り続けることができるだろうか。健全な市民の徳が無能と見なされる今の時代、この子は大人になっても傷つけられることも、ばかにされることもなく世の中をうまく渡れるだろうか。これを考えると涙が出てくる。
李漢洙(イ・ハンス)記者