国民党軍に追われていた毛沢東は中国共産党の宣伝本を書いてくれる外国人記者を探した。米国人エドガー・スノーを根拠地の保安に呼んでインタビューを受けた。スノーが1937年に書いた『中国の赤い星』は中国共産党を過度に美化した内容が多い。ウソと言っていいレベルの「創作」もある。しかし、中国に対する西側の認識を180度変えた。毛沢東は文化大革命のさなかでもスノーを呼んでもてなした。スノーの本は韓国の586世代(1980年代に大学に通った1960年代生まれの50代の人々)をはじめ、全世界に「毛沢東の幻想」を抱かせた。スノーは中国の「老朋友(ラオポンヨウ=旧友、古き良き友人)」第1号になった。
【写真】「なぜ中国にちょっかいを出すのか。ただ『謝々』、台湾にも『謝々』」と語る李在明代表
1969年に中ソ国境のウスリー川で衝突が起き、200人近い両国の兵士が戦死した。中国はソ連の核攻撃に備え、首都を重慶に移す計画まで立てたが、この時、米国と日本が手を差し伸べた。1970年代に米国はニクソン大統領とキッシンジャー博士、日本は田中角栄首相が国交正常化の扉を開いた。キッシンジャー博士は100歳で死去するまでに中国を約100回訪れたが、そのたびに中国の最高指導者の歓待を受けた。1978年の鄧小平副首相訪日時、既に首相を退いていた田中氏は収賄事件の渦中にいたが、鄧副首相は同氏の私邸まで行き表敬訪問した。ニクソン大統領、キッシンジャー博士、田中首相の共通点は、中国と親しくなるために台湾との関係を絶ったという点だ。中国は3人を「老朋友」と呼ぶが、台湾はキッシンジャー博士のことを「中国のスポークスマン」と呼んだ。
中国は、朴槿恵(パク・クンヘ)元大統領が中国の戦勝記念日の閲兵式に出席すると、「老朋友」と呼んだ。「朴姐(ポウジェ=朴槿恵姉さん)」とも言った。しかし、韓国が終末高高度防衛ミサイル(THAAD)配備を決定すると、中国はすぐに顔色を変えた。「朴大統領の外交政策は(同大統領の国政に介入した)崔順実(チェ・スンシル)の影響だ」と述べた。フィリピンのドゥテルテ元大統領も反米時は「中国の最も重要な友人」だったが、南シナ海における領有権問題が浮上すると「友人」という言葉が消えた。
文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は2017年の訪中前、「習近平主席と老朋友になりたい」と言った。「中国は大きな山の峰、韓国は小さな国」という献辞までささげた。ところが、その見返りは8回の「一人メシ」だった。中国は腕を引き寄せる前に、先に頭を下げる相手を見下して利用する。相手が強国・大国でなければ、なおのことだ。
韓国最大野党・共に民主党の李在明(イ・ジェミョン)代表による「謝々(シエシエ=中国語でありがとうという意味)発言」に中国が反応している。主要ポータルサイトには「物事がよく分かっている(明)政治家」「まともな人(明白人)」「絶対的な親中」などのコメントが相次いでいる。中国は、韓米同盟や韓米日協力が揺らぐすきに韓国国会議員総選挙で勝利が予想される李在明代表を利用したいのだろう。「謝々、李在明」ということだ。
アン・ヨンヒョン記者