1923年9月8日付の朝鮮日報紙に、イ・ジュチョンという日本留学生の関東大震災での目撃談が載った。咸鏡南道北青出身のイ・ジュチョン氏は、夏休みを終えて東京へ戻る途中だった。「東京から60里離れた川口駅(川崎駅の誤りか)まで行くと、全身血みどろの人が大勢乗ってきて東京の話をするのだけれど、ぞっとする内容で、火光はそのときも中天を照らしています」。イ・ジュチョン氏は「新聞の号外にて、品川で朝鮮同胞300人を〇〇(殺害)したという記事を見た」と語った。総督府警務局はこの記事を差し押さえた。だが差し押さえの直前、印刷した紙面が配布されて目撃談は広まった。
【写真】関東大震災の記事が削除された状態で印刷された1923年9月5日付朝鮮日報紙面
総督府は関東大震災直後、厳しい報道統制に乗り出した。毎日のように差し押さえ、削除、発売禁止命令が下った。9月1日の地震発生直後から11月上旬まで、朝鮮日報・東亜日報の記事・社説など18件が差し押さえられた。だが各紙は、差し押さえや削除の直前に新聞を大量印刷したり号外に回したりといった手法で朝鮮人虐殺の速報を出した。
朝鮮日報9月24日付の「朝鮮人の暴行は絶無」という記事は「今回の震災中、朝鮮人や社会主義者の暴行や放火は絶対にない」という警視庁の報告を引用して報じた。日本政府・警察の流布した「朝鮮人暴動」説は事実無根だということを認めた、という点を浮き彫りにした。東亜日報9月9日付の「火の海から脱出し、無事帰国まで」という記事は「日本人たちは東京行きの列車に向けて、東京に行ったら朝鮮人を〇〇しろと大声で叫び、ぞっとした」という証言を載せた。
10月4日付の朝鮮日報社説「僑日同胞へ」は、朝鮮人虐殺が日本の植民支配で始まったものだとして、日帝の統治に正面から挑戦した。「彼らの遭った今般の不幸惨変は、われわれの民族的不幸を縮小した好標本であるというわけだ。この惨変の出発点は、支配と圧服の関係にある両民族の現在の場合であったが、あの惨変があった後、その感情がますます悪化したであろうことは何をもってしても隠蔽(いんぺい)し得ない事実だ」。社説はさらに、留学生・労働者全員に向けて、早く帰国するよう訴えた。
金基哲(キム・ギチョル)記者