壬辰倭乱(じんしんわらん。文禄・慶長の役)の教訓を後世に伝えようとした領議政(首相に相当)柳成竜(ユ・ソンリョン)の『懲ヒ録』と李舜臣(イ・スンシン)将軍の業績は、恥辱の歴史を覆い隠そうとした朝鮮王朝ではすぐに忘れ去られたが、日本は数百年にわたって二人を研究し、戦争の教訓をかみ締めた。1905年にロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎提督は、出戦に先立って李舜臣に戦勝祈願を行い、勝った後の祝宴で「自分は李舜臣に比べれば下士官にも劣る存在」と語った-と日本側の史料は伝えている。それとは対照的に朝鮮王朝は、倭乱を経験した後も何ら対策を取ることなく親明事大と党派争いにばかり没頭し、わずか30年で再び丁卯(ていぼう)・丙子(へいし)胡乱(こらん)に見舞われ、それでもなお対策を取らず、19世紀末の帝国主義侵攻に遭って滅んだ。
植民支配が終息して80年が過ぎた現在も、韓国ではあの時代に対する追加の謝罪と賠償の要求が大いに話題になる。しかし、韓国以上に残酷な過去史を経験した国も皆未来のために共に生きていくこの時代に、独り韓国だけが過去史に埋没して生きることはできない。ケニア、インドネシア、ナミビアなども植民支配国に謝罪・賠償を要求したというが、これは特定の大量虐殺事件に限った要求だったというだけだ。それにもかかわらず、ことさら過去史の議論を続けようとするのなら、南侵戦争を起こして数十万の国民の生命を奪っていった北朝鮮・中国との過去史も共に議論されねばならないだろう。
韓国があの時代の歴史から学ぶべき教訓は、同じ不幸が繰り返されないように富国強兵を確固として行うことだ。日帝36年の記憶は消せないが、それが将来の安全保障と繁栄において障害になってはならない。1965年の韓日基本条約と1998年の金大中・小渕恵三共同宣言は、両国が過去史を越えて未来へ進むべき具体的な道を提示した勇気ある政治的決断だった。韓日関係が向かうべき道は、当時も今も変わらず明確だ。ただ、過去史の川を渡るための政府と国民の勇気ある行動が必要というだけだ。
李容濬(イ・ヨンジュン)元外交部北核大使