養子縁組機関のホルト児童福祉会(以下、ホルト)では1日、「養子縁組で海外に渡った児童の後見人義務などを放棄したことに対し、1億ウォン(約1000万円)を賠償せよ」という裁判所の判決に控訴することを発表した。ソウル中央地裁は先月、1979年に養子縁組で米国に渡ったシン・ソンヒョク(米国名:アダム・クラプサー)氏がホルトを相手取り起こした損害賠償請求訴訟で、シン氏の訴えを認めた。韓国の裁判所が養子縁組機関の責任を認めた初めての判断だ。ホルト側は1日、「後見人の義務は(児童の)米国到着後、終了する」と主張した。
韓国戦争(朝鮮戦争)以降、本格化した韓国の海外養子縁組の中心にはホルトがあった。1958年から昨年までの65年間で韓国から海外に渡った養子は公式統計だけで17万人いる。このうち45%を超える約7万7000人がホルトの養子縁組によるものだ。韓国は世界で最も多くの児童を海外に送り出している国だ。児童保護に関する非政府組織(NGO)団体「国際社会サービス(ISS)」の昨年の発表によると、韓国は2020年に266人を養子縁組で海外に送り出しており、これはコロンビア(387人)、ウクライナ(277人)に続く世界第3位の記録だという。主要8カ国(G8)入りを狙う韓国だが、ウクライナに次いで多くの児童を海外に送り出しているのだ。韓国政府関係者は「韓国は今、合計特殊出生率が世界最低を記録するなど、海外から労働力を輸入しなければならない状況にあるが、韓国の子どもたちを海外に送り出している」「血縁重視の文化などが原因とみられる」と語った。
ホルトを設立したハリー・ホルト氏(1905-1964年)は1954年、韓国戦争に参戦した米軍兵士を父親に持つ私生児たちの記録映画を見て、養子縁組を決心した。既に1男5女がいたが、米国人と韓国人の間に生まれた子どもなど戦争孤児8人を養子に迎えた。ホルト夫妻は1956年、ソウル市西大門国に現在のホルトの母体となる「ホルト氏海外養子会」を設立した。
ホルトは外国人と韓国人の間に生まれた子どもを海外で養子縁組した。1950-60年代の韓国では児童福祉に期待することはできなかった。1961年に路上生活していた子どもは公式統計だけで4453人いた。米軍兵士と韓国人女性の間に生まれた子どもは1300人を超えた。韓国が経済的に苦しかった1970年代まで、海外養子縁組は養育を放棄された子どもたちが現状から脱出するための突破口であり、ホルトはその中核となる役割を果たした。
海外養子縁組は戦争や災害などの特殊状況下で短期間行われ、社会が安定するにつれて減少していくのが一般的だ。ところが、韓国は休戦から30年たった1980年代半ばに海外養子縁組がピークに達した。1985年には8837人が海外に送られた。これは出生児100人に1.3人に相当するもので、世界でも類を見ない数字だ。これは当時の韓国政府が海外養子縁組の門戸を開放し、養子縁組機関が競い合った結果だと分析されている。1985年の韓国の合計特殊出生率は1.67で、出産奨励策を開始しなければならない状況だった。だが、2002年に出生率が1.18と超少子化社会に突入した後も、2365人の児童が海外に渡った。
1980年代、ホルトの養子縁組担当職員の月給は25万ウォン(現在のレートで約2万6000円)程度だった。しかし、海外養子縁組すれば、1人当たり手数料300万ウォン(約32万円)を受け取ることができた。このため、「養子縁組で金もうけしているのではないか」という批判の声も上がった。養子縁組で海外に送り出す人数に重点を置いていたため、養父母にふさわしいかどうかの確認など、後見人としての義務をきちんと果たさなかったという指摘も絶えず取りざたされた。
2000年代に入ると、養子たちが自ら「虐待」などの被害を訴えるようになった。今年2月の国家人権委員会の発表によると、韓国から養子縁組で海外に渡った人の3人に1人が「虐待」を受けたという。また、8人に1人は「性的虐待」を告白した。最も代表的な問題は「代理養子縁組(proxy adoption)」だった。2012年まで養父母たちは養子を連れて行くために韓国に来る必要がなかった。書類で見た子どもたちを、留学生などの代理人が養父母に引き渡すことができた。養子縁組機関が養父母を直接確認せず、「資格や適性が不十分な養父母」による養子縁組が相次いだ。
世界のほとんどの国では公共機関が養子縁組を担っている。ところが、韓国はホルトのような民間機関に海外養子縁組を主導させている。2012年の改正養子縁組特例法の施行以降は家庭裁判所が養子縁組許可を決定することになったが、それまでは民間機関が韓国の子どもの海外養子縁組を決めていた。
キム・ギョンウン記者