【独自】「趙瑪利亜が息子・安重根に送った『手紙』は日本人僧侶の作り物だった」(下)

都珍淳教授の未発表論文「趙瑪利亜の手紙、操作と実体」で明かされた内容

■「手紙」(a)の最終分析

 今、あらためて、現在広く流布している手紙(a)の実体を分析してみます。これは、都珍淳教授の論文を基に私が再び番号を振って分析したものです。太字で表示した部分が、1994年以降に付け加えられたものです。

〈(1)おまえが老いた母より先に死ぬことを不孝と考えるのであれば、この母は笑い者になるだろう。

(2)おまえの死はおまえ一人のものではなく、朝鮮人全体の公憤を背負っているのだ。おまえが控訴をしたら、それは日帝に命乞いをすることになる。

(3)おまえが国のためにここに至ったとあらば、

(4)余計なことを決心せず死ぬべき。正しいことをして受ける刑なのだから、ひきょうに命乞いをせず、大義に死することがこの母に対する孝道だ。おそらくこの手紙が、この母のおまえに書く最後の手紙になるだろう。ここに寿衣を作って送るので、これを着て行きなさい。

(5)母は現世でおまえと再会することを期待していないので、来世では必ず、善良な天父の息子となり、この世にいでよ〉

 ここで、趙瑪利亜の三つの伝言の中に実際にあったと思える根拠のある文章は、(3)(1910年2月1日、2度目の伝言)と、(5)(1910年12月23日、最初の伝言)だけです。そのうちの(5)からは「刑に服して速やかに現世の罪悪を償うべき」「神父さまが代わりにざんげをささげるだろう」という言葉が削除されました。残りの(1)(2)(4)は、実際に趙瑪利亜が言ったことではなく、全て1994年以降に「作られた」ものです。(1)は1994年の斎藤氏の著書に初めて出て来る内容で、(2)は2002年の韓国語翻訳本で初めて出て来る内容、(4)はその後に何者かによって追加された内容です。

 かくして、虚構と実在の資料を取り交ぜて継ぎはぎした資料、操作と潤色で作られた言葉が、実際にあった伝言の日付(1909年12月23日、1910年2月1日と2月13日)を全て飛び越え、安重根の死刑宣告日である1910年2月14日より後に母親が送った手紙の内容であるかのように化けたのです。

【写真】チョン・ソンファ&キム・ゴウンら「映画『英雄』メディア試写会

■「寿衣」は果たして母が作ったのか?

 この「操作された手紙」には「ここに寿衣を作って送るので、これを着て行きなさい」という言葉が挿入されています。ミュージカルや映画『英雄』では、母親が作ってくれた寿衣を着て刑場へ向かう安重根の姿が大きな感動を与えました。

 しかし…これもまた、実際とは違いました。安重根の死刑執行日は1910年3月26日でしたが、安重根は3月8日から11日にかけてウィレム神父と会った後に初めて「自分の服は血がついて汚れたので、朝鮮風の白い服に早く着替えたい」と、寿衣を要請していました。2月14日以前の母親の「伝言」に、「寿衣を作って送る」という話が出てくることは到底あり得なかったのです。

 ならば、安重根はどうやって寿衣を入手したのでしょうか。1910年3月24日付満州日日新聞は、このように報じました。「安重根が注文した白い韓服は2-3日前、旅順の客桟(宿泊施設の一種)に滞在している二人の弟の元へ送られてきた、価格が56ウォンで非常に立派なものだという」

 母親の趙瑪利亜が寿衣を作ってあげたのではなく、息子の要請に基づいて56ウォンを出し、仕立屋に寿衣を注文、購入した後、安重根に届けたのです。

前のページ 1 | 2 次のページ
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) Chosunonline.com>
関連フォト
1 / 1

left

  • ▲2002年に韓国語に翻訳された『わが心の安重根』。写真は、2022年に出版された改訂版の表紙。

right

あわせて読みたい