【コラム】日本海軍は敵将・李舜臣に向けて祈りをささげた

韓国の海は東海にとどまらず北極航路へ…海洋安全保障の生命線はインド洋まで拡張
国の運命を左右する海に向けた敬礼を見て思い浮かぶ意味が、せいぜい旭日旗だけなのか

 韓国近代史のミステリーの一つが「李舜臣(イ・スンシン)叙述」だ。1795年に国王・正祖が全書を編さんした後、1908年の申采浩(シン・チェホ)による「李舜臣伝」連載まで、およそ100年以上にわたり韓国において李舜臣の叙述は空白だった。通常、韓国近代の出発点は1876年の、日本の侵奪が始まった江華島条約からと見なされる。当時の状況で李舜臣は、最高の時代的象徴だった。なのに亡国直前まで、韓国で李舜臣は英雄として召喚されなかった。

【写真】旭日旗を掲揚して仁川港に入港した海上自衛隊練習艦かしま(2007年9月)

 コインの裏表のように存在するミステリーが、日本の近代における李舜臣叙述だ。作家の司馬遼太郎はさまざまな著書で、旧帝国海軍の将校が、ロシアのバルチック艦隊との決戦のため出港する際、李舜臣の魂に向けて祈りをささげる場面を描いた。作家の想像ではなく事実だ。日本のエリートの一部は李舜臣を研究し、尊敬していた。これを一つの動力として戦争に勝ち、遂には韓国を併呑した。韓国の歴史において最も逆説的で、悲劇的な場面だと私は考える。

 19世紀の日本における李舜臣叙述は、二つに時期区分することができる。前期は金時徳(キム・シドク)教授、後期はキム・ジュンべ教授の研究で細かく明らかにされた。二人によると、『懲ヒ録』が日本で刊行されてからおよそ50年間、日本の戦争小説に李舜臣は「朝鮮の英雄」として登場する。この立ち位置が、19世紀後半になると「世界の英雄」に格上げされる。李舜臣の叙事は文化現象から政治的・軍事的現象へと幅が広がった。これを主導したのが日本軍、とりわけ海軍だった。

 李舜臣を「東洋のネルソン」になぞらえた賛辞は、1892年の『朝鮮李舜臣伝』に初めて出てくる。陸軍系列の機関誌「偕行社記事」が編さんした書籍で「李舜臣が豊臣秀吉の大遠征を画餅にした」と記した。賛辞は海軍によって誇張された。後に海軍中将にまでなる佐藤鉄太郎は、著書『帝国国防史論』で「ネルソンは人格において李舜臣に比肩し得ない」とし「匹敵する者は(英蘭戦争で英国を破った)オランダのデ・ロイテルくらい」と記した。海戦の研究に飛び込んだ動機については、同書の緒言で「同将軍(李舜臣)の崇高なる人格と偉大なる功業とは酷(ひど)く吾(わが)精神を引き立て」たと回想した。同じく海軍軍人の小笠原長生(ながなり)も『海上権力史講義』(原文ママ)で「李舜臣が海上権を堅く守っていたことで戦争の大要素が全て消滅し、猛進していた陸軍もおのずと孤立した」と記した(以上、キム・ジュンベ教授の研究)。李舜臣の叙事が、尊敬と賛辞から戦争史的研究へと進化したことが分かる。

 こうした叙述は、韓国でも比較的よく知られている。これを引用する文章には「敵国日本すら尊敬するほかなかった偉大な英雄」という評価がしばしば付いて回る。誇りに思って当然だろう。だが、それにとどまらない重要な含意がある。

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