【コラム】金正恩委員長は韓国公務員射殺事件に何を思っただろうか

 今月13日に韓国海洋水産部(省に相当、以下同じ)職員だったイ・デジュンさん殺害事件に対する監査院の監査結果が公表されたが、これを見て少し的外れなことが気になった。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長はこの事件について何を感じているのだろうか。

 イさんを射殺し遺体を焼却した北朝鮮はそれから3日後の2020年9月25日、労働党統一戦線部名義で韓国に通知文を送ってきた。その内容は「金正恩同志は…想定外の不名誉な事態が発生し、文在寅(ムン・ジェイン)大統領と南の同胞に…非常に申し訳なく思っている…」というものだった。「最高尊厳」が「生きた牛の頭」とまで侮辱した文前大統領に自ら謝罪したわけだが、これは非常に異例とも言える出来事だった。

 この通知文に当時捜査に力を入れていた韓国政府と与党は大喜びだった。「韓国に対する北朝鮮の立場が変わる転機になるかもしれない」との見方が出ただけでなく、「北朝鮮の犯罪行為に対して責任を追及すべきだ」と批判的だった世論も多少は収まったからだ。

 これまで伝えられてこなかったが、文前大統領がこの通知文に事実上の回答を行った徴候が今回の監査院による監査で明らかになっている。通知文を受け取った2日後(27日)に文前大統領は関係閣僚会議で「国防部(省に相当)による遺体焼却の発表はあまりに断定的だった。遺体の焼却について改めて分析せよ」と国防部長官に指示したというのだ。

 イさんの遺体が北朝鮮軍により焼却されたのは当時の韓国側関係者の間では周知の事実だった。さまざまなルートを通じて情報を入手し、これにより国防部は(2020年9月)24日「韓国国民に銃撃を加え遺体を焼却するという蛮行だ」との声明を発表した。一方で文前大統領がこのように突然再調査を指示した理由について詳しくは分からないが、北朝鮮からの通知文からその端緒を読み取ることができそうだ。

 この通知文には金正恩氏の謝罪と同時に北朝鮮式のいつもの主張もあった。それは「わが(北朝鮮)軍人たちは違法侵入者が射殺されたと判断しており、侵入者が乗っていた浮遊物は現地で焼却した」という内容だった。これに対して韓国政府は「ぼろぼろの浮遊物に乗った状態で必死で救助を求める侵入者などあり得ない」といった反論はせず、「遺体の焼却」はもちろん「韓国国民を射殺する蛮行」に対しても強く抗議しなかった。文前大統領の指示を受け政府の立場は「遺体が焼却されたかどうかは不確実」に変わった。

 金正恩氏は叔父を高射銃で処刑し、外国の空港で腹違いの兄を殺害する程度しか人権に対する意識はない。その金正恩氏が謝罪するほどの事態に対し、韓国政府の対応はこのように目も当てられないほどだった。当時の大統領によるこの指示を金正恩氏が聞いていれば、一体どのように感じただろうか。

 文前大統領は人権弁護士とされてきたが、それでも北朝鮮の悲惨な人権問題の実態にだけはただひたすら口を閉ざしてきた。国連による北朝鮮人権決議案の共同提案国には3年連続で加わらなかったし、またイさんが射殺された当時、韓国政府はイさんを助けるため北朝鮮に連絡すらせず、イさんが射殺された直後には106件の関連情報を破棄してしまった。

 当時与党だった共に民主党は今も監査院の監査を「違法」と主張しており「イさんが越北者ではない証拠を出せ」と強弁している。しかしたとえ誰かが越北を試みたとしても、その人に人権はないのだろうか。

 文前大統領が旅客船「セウォル号」事件現場の芳名録に「申し訳ない。ありがとう」と記載したことは今も語り継がれている。多くの幼い生徒たちの生命を守れなかったことは大人として確かに申し訳ないことだが、一方で「ありがとう」と書いた理由については理解しがたいからだ。

 文前大統領はイ・デジュンさんに対して感謝の思いはないだろう。しかし申し訳ない思いは今もないのか、あっても口にしないのか本当に聞いてみたい。越北者家族というレッテルがいかにつらいか訴えてきたイさんの息子も、イさんが殺害された当時はまだ高校生だった。

社会政策部=金徳翰(キム・ドクハン)部長

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