韓国の国民的な画家イ・ジュンソプ(李仲燮)と日本人妻・李南徳(イ・ナムドク。日本名:山本方子)さんの最初の出会いは、どこにでもいる若い男女のようにみずみずしかった。元山から日本へ留学に行った富豪の息子・イ・ジュンソプは、学校の後輩・方子さんに一目ぼれした。よく笑う闊達(かったつ)なイ・ジュンソプだったが、彼女の前では言葉に詰まった。見かねた友人が、自分の誕生日だと偽って二人を招待した後、二人きりにして姿を消した。イ・ジュンソプは、恋愛していたころも牛を描いた。1940年の作「牛と女人-精霊1」に女性と、彼女の体に頭を寄せる牛を描き込んだ。誰が見ても愛の告白だった。
【フォト】イ・ジュンソプが妻・李南徳さんに送った絵手紙(1954年)
二人の愛は、イ・ジュンソプが日帝の徴兵を避けて元山に戻ったことで終わりそうになった。しかし、イ・ジュンソプが送った「結婚が急務」という便りを受け取った方子さんは1945年4月、牛が好きだという男と共に生きようと、関釜連絡船を愛の架け橋として海を渡った。戦争中、命懸けの海路だったが「死ぬのは怖くない旅だった」という。
6・25戦争中の1952年に妻と2人の息子を日本へ送り出した後、イ・ジュンソプの目的はたった一つ、家族との再会だった。それから行旅病者として亡くなるまでの4年間、イ・ジュンソプが妻に送った手紙は、読む者の胸を打つ。「この世に僕ほど妻を愛し、狂ったように会いたいと思う人間がまたいるだろうか」。文章を書けるようになった息子から初めて手紙をもらったときの感激もつづられた。「子どもたちに送る手紙は、どうもうまくいかないね。どう書けば、子どもたちが喜ぶんだろうか」
希望と絶望は手の甲と手のひらだ。ひっくり返ったら、極端を行き来する。麺もの1杯で一日耐え忍びつつも「作業に没頭しながら、どうやればあなたを幸せにしてあげることができるかと、ひたすらその思いだけ」だったイ・ジュンソプは、1955年にソウルと大邱の展示会が相次いで失敗すると、駄目になってしまった。日本へ行くことができなくなったという絶望で食事すら断った。妻が送ってきた手紙も開封しなかった。
2016年6月にソウルで開かれたイ・ジュンソプ生誕100周年記念展に、李南徳さんの手紙が届いた。その手紙で「生まれ変わっても一緒になりますよ。私たちは運命だから」と記していた李さんが、8月に101歳で世を去っていたことが先日分かった。臨終は病院で迎えたが、住んでいた家は、イ・ジュンソプがおよそ200通の手紙を送った東京・世田谷の住所のままだった。李さんはイ・ジュンソプと7年を共に過ごし、70年を一人で生きた。その歳月を耐えた愛の深さは計り知れない。李さんは「かっこよくて好きだった」イ・ジュンソプと会いに、最後の愛の架け橋を渡ったのだろう。橋の向こうで夫が、両腕を広げて妻を迎えたことだろう。
金泰勲(キム・テフン)論説委員