遺体は、殉教当時の凄惨(せいさん)な状況を示していた。尹持憲は凌遅(りょうち)処死刑に遭い、遺体の第2頸椎(けいつい)、左右の上腕骨、左の大腿骨には鋭利な器具で切られた痕跡があった。両足の膝から下と両腕の肘から先の部分は発見されなかった。四肢を切られてばらばらにされたからだ。尹持忠と権尚然の遺骨にも斬首刑の痕跡が残っていた。
3人の殉教者は名家出身のエリートだった。全羅道珍山(現在の忠清南道錦山)生まれの尹持忠は孤山・尹善道(ユン・ソンド)一族の子孫で、24歳のとき科挙に進士で及第した。父方のいとこに当たるチョン・ヤギョンによってカトリックに接し、姻戚の李承薫(イ・スンフン)から洗礼を受けた彼は、当時の北京主教が祭祀(さいし)廃止令を下したことを受け、1791年に先祖を祭る祭祀を廃止し、神主(先祖の位牌〈いはい〉)を燃やした。権尚然も同じく神主を燃やした。「廃祭焚主」と呼ばれたこの事件で、彼らは大逆の罪人として追及され、全州南門外(現在の殿洞聖堂跡)で処刑された。拷問を受け、信仰を捨てるよう要求されたが、最後まで応じなかった。3人の殉教者は2014年にフランシスコ法王が訪韓した際、列福された。福者は、カトリックで聖人の前段階に当たる。
全州教区長の金仙泰主教は「最初の殉教者らの遺体と対面させてくださった神のご意志は、殉教者らが持っていた霊性を私たちも手本とすることにある」と語った。全州教区の関係者は「殉教者3人の遺体は完州の草南イ聖趾に用意された安置所に保管される予定で、今月16日から信者および一般の人々にも公開される」と語った。