朝鮮王朝時代、柳游の妻・白氏はなぜ「偽物の夫」を受け入れたのか

均分相続から長子相続へと変わる過渡期
朝鮮王朝時代に実際に起きた行方不明・詐欺事件を権乃鉉・高麗大学教授が分析

 16年後の1579年(宣祖12年)、事態は逆転した。本物の柳游が平安道で物乞い同然の身なりで生きていたことが明らかになったのだ。行方をくらませていた蔡応珪は逮捕され、押送(護送)の途中で自殺した。本物の柳游の方は、父親の喪葬礼に参加せず人倫に背いた罪で杖刑(じょうけい、棒打ち刑)100回と徒刑(労役刑)3年を受けた後、大邱へ戻り、2年後に世を去った。この事件は『朝鮮王朝実録』や李恒福(イ・ハンボク)の『柳淵伝』などに記録され、後世に伝えられることになった。

 権乃鉉教授は、この事件について「朝鮮王朝時代前期の均分相続が17世紀以降の長子優待相続へ移っていく直前の、過渡期の状況を反映したもの」と分析した。もしこの事件が朝鮮王朝時代後期に起きていたら、早くに世を去った長男の柳治(ユ・チ)が養子を取り、家系を継いだはずで、柳游と柳淵は相続において優待を受けられなかったから争いは起きなかったはず―というのだ。

 ところが16世紀の朝鮮社会では、均分相続の枠組みが維持される中で家系の継承者の取り分が増えており、嫡長子に息子がなければ弟が一家の祭祀(さいし)をつかさどる「兄亡弟及」の規定もあった。従って▲次男の柳游は嫡統を継ぐことができた▲柳游の妻・白氏は相続上の不安定な立場を考慮して蔡応珪の真偽を積極的には問わず、行方不明後に夫であることを認めた▲柳游の弟・柳淵は兄を殺して嫡長子の地位を奪おうとした疑いもあり得た-というわけだ。

 権教授は、その後に朝鮮王朝後期の長子優待相続が逆らい得ない流れになった理由として「相続財産の縮小」を挙げた。長子相続に伴って、相続争いや裁判はむしろ減った。しかし21世紀になって家父長的イデオロギーが希薄になる中、再び均分相続へ戻っていっているのだ。

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兪碩在(ユ・ソクチェ)記者
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