■利上げと不動産融資総量規制でバブル崩壊、機会逃した日銀
不動産価格高騰は社会的対立を招き、政治的な争点となった。バブルをある程度容認してきた日本政府は世論に背中を押される形で不動産融資を事実上引き締める「不動産総量規制」を導入した。バブル絶頂期の89年12月、日銀総裁に就任した三重野康氏は「インフレなき成長」を主張し、電撃的に金利を引き上げた。
政府の求めで利上げには消極的だった前総裁とは異なり、三重野総裁は「不動産価格は20%程度下がるべきだ」とし、2.5%だった政策金利を90年8月には6%まで引き上げた。さらに、88年のバーゼル合意に従い、銀行も不動産担保融資を削減。そうしたうねりが不動産市場を覆った。不動産市場よりも先に株式市場が反応した。89年12月に3万8915円で最高値を付けた日経平均は、利上げ本格化を受け、90年10月に2万円を割り込んだ。
青天井で上昇していた地価も利上げによる影響で、調整期を経て下落に転じた。当時三重野総裁は「庶民のためにバブルという悪を退治する義賊」「バブル退治人」などと称賛された。三重野総裁は94年12月まで在任し、不動産価格と株価を急落させることには成功したが、景気浮揚のための利下げにはあまりに消極的だった。三重野総裁は日本の景気低迷が長期化し、「日本経済を滅ぼした主犯」との批判も受けた。日銀は株価と不動産価格の急落を受け、政策金利を93年には再び1.75%まで引き下げた。しかし、あまりに遅く、緩やかに金利を引き下げたことへの評価は厳しかった。2002年にFRBの経済学者は報告書を通じ、「89年にバブルが崩壊した際、日本の中央銀行が政策金利を攻撃的に引き下げていれば、デフレの悪循環は訪れなかった」と主張した。