では、どうすべきなのだろうか? この問題をめぐる議論は、同じ国民に対する非難ではなく、共感から出発しなければならないと私は考える。身近な腐敗の多くが、我々特有の道徳的な善の観念に歴史的根源を置いていることを認識するのが出発点だ。例えば、1950年代の官僚たちはろくに給料を受け取れなかった。富裕層である彼らは清廉でいることができたが、ほとんどは自身が持つ権限を利用して金を稼がなければならなかった。酒を飲んで賭博をするために? いや、そうではない。子どもたちを食べさせ、より良い生活ができるよう教育するためだった。
彼らにとっては大家族だけでなく、社会的なつながりの中にある人々を助けなければならない道徳的義務があった。議論の余地こそあるが、彼らにとってはそれが「国家」だった。大家族と所属集団は、彼らが負う道徳的義務の受益者だった。
腐敗の根源を抜本塞源(そくげん)するため、我々は「かつての世代の道徳的義務は今はもうない」ことを自分たちに教え込まなければならない。家族は以前に比べてはるかに小さくなり、今では自分が金を稼いでいるからと言って、親族の生活まで支える必要もない。 「国家」は今、大家族ではなく、国全体だ。現代の大韓民国は誇りを持つのに値する国である。子孫たちはこの国を建設するのに苦難を味わってきた人々に感謝しなければならない。韓国は偉大な国であり、この国の高齢者たちは韓国の歴史の真の英雄世代だ。
我々は今、以前のように家族ではなく、同じ国民として道徳的に結束している。例え彼らのほとんどが完全な他人であっても、だ。この複雑な現実を尊重する方法は、我々自身の清廉さを自ら診断し、互いを欺くのを正当化することに道徳的な物差しを使わないことだろう。
マイケル・ブリーン元ソウル外信記者クラブ会長 『韓国、韓国人』著者