【コラム】東京で出会った李承晩

【コラム】東京で出会った李承晩

 逝去55周年を迎えた李承晩(イ・スンマン)元大統領に対する執権勢力の侮辱が相次いでいることから、ここをもう一度訪れようと考えた。「独島は日本の領土」と主張する日本政府の「領土・主権展示館」だ。日本側の意図とは裏腹に、李承晩が日本に対抗して独島を守るために努力した業績が見て取れる場所だ。安倍内閣は今年1月、独島と尖閣諸島(中国名:釣魚島)、クリル列島(北方領土)の領有権を主張する展示館を、東京のど真ん中に移転・拡張してリニューアルオープンした。

 21日に再び訪れたこの展示館は、コロナ禍の中でも開館していた。「独島館」には依然として横10メートル、縦3メートルの大型パネルがあり「韓国の独島不法占拠」の過程が詳しく説明されている。1951年のサンフランシスコ平和条約前後の李承晩政権と国際社会の動きを日誌の形で展示している。

 独島は1945年の日本の敗亡と共に自動的に韓国の領土と認められたわけではなかった。米国の立場が二転三転し、独島が竹島(独島の日本名)となりかねない危険千万な状況もあった。このとき李承晩の強い決断と国際感覚が光を放った。日本の領土・主権展示館は韓国の「不法行為」を強調し「1952年の李承晩ライン(平和線)」についてこのように記述している。

 「李承晩韓国大統領は海洋主権宣言を発出し、いわゆる李承晩ラインを公海上の広範な海域に一方的に設置するとともに、このラインの中に竹島を取り込んだ」「その後、同ラインを侵犯した日本の漁船を拿捕(だほ)する事案が済州島南方の漁場を中心に多数発生するようになり、船員が抑留されるなど問題が深刻化した」

 李承晩の平和線が宣布された1952年は、(朝鮮半島は)どのような状況だったのか。当時は金日成(キム・イルソン)の同族殺害、南侵による戦争中だった。開戦初期の絶体絶命の危機は免れ、休戦交渉が始まったが、あらゆることが不確実だった。皆が38度線の近くだけを見ていた。そんなときにも李承晩は海外の状況を詳しく読み解き、国際社会を驚かせる決定を下した。サンフランシスコ平和条約の発効の3か月前に平和線を宣布し、独島に対する実効的措置を取った。続いて1954年には独島に灯台を設置した。警察の警備隊も派遣した。日本がこれに抗議する口述書を送付してきたが、一蹴した。逆に独島の風景をデザインした記念切手3種を発行し「独島は韓国の領土」であることを明白にした。

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