女性が被害者になる犯罪をめぐって慎重な立場を取る犯罪学者は、「女性嫌悪」と断定することをためらう。「もともと凶悪犯罪は弱い存在を選ぶようになっており、だから女性や障害者、高齢弱者がターゲットになる」という。弱者を選ぶから女性、というわけだ。結果は同じだが「原因」が違うので、処方も違うはずだという指摘だ。しかし、昨年起きた江南駅女性殺害事件の後、社会学者・女性学者を中心として「女性に対するヘイトクライム」「女性嫌悪社会」と断定する現象が見られるようになった。「女性嫌悪だ」「そうじゃない」とネット上で争いが繰り広げられているにもかかわらず、女性学・犯罪学・社会学・法学の専門家が集まって討論したという話は特に聞いたことがない。ただ断定し、追及するだけだ。
『帝国の慰安婦』の著者、朴裕河(パク・ユハ)教授は今年1月、元慰安婦に対する名誉毀損(きそん)の刑事裁判の一審で無罪となった。裁判所の判決文にはこうある。「表現の自由と価値判断の問題で、市民や専門家が相互検証し反論すべき事案だが、裁判所が刑事処罰すべき事案ではない」
朴教授の著書が問題になったとき、知識人クラスの有名人が「その女は狂ったXX」と言った。「どの部分がそうなのか」と尋ねると「本は読んでいないが、ネットで見たから」と答えた。本を読んだという人は、記者数人を除いて周囲にほとんど見掛けないが、みんなそろって「朴裕河問題の専門家」としての判断は済んでいた。『帝国の慰安婦』には、見るに耐えない扇情的な表現があるが、植民地時代の動員体制に奉仕した朝鮮人などをさまざまな視点で取り上げている。見直すべき部分も、反論すべき部分も多い。朴教授を声高に非難する人は力に満ちあふれているが、朴教授を擁護する学者は「ネットが怖い」と逃げていった。検察が朴教授を起訴すると、190人の学者が起訴反対の署名を行ったが、その論旨は「学問の自由」を侵害するという、当たり障りのないものだった。
無知では無知を悟れない。「知性」が団結し、勇気を出さなければならない。両翼で飛ぶと右からも左から石をぶつけられる、いびつな時代を正したければなおさらだ。