本書は、著者のソウル大学外交学科の博士論文を整理したもので、これまで主に開化党関係者の記録や回顧に依存していた開化党研究の地平を拡大した。だが、外国の史料にも同じように主観と歪曲(わいきょく)が入り込んでいるのではないか? これに対し、キム研究委員は「外交文書は事実を記録するしかなく、複数の国の外交文書が開化党について同じ話をしていれば信用できる」と語った。
著者は、朴趾源(パク・チウォン)の北学思想が孫の朴珪寿(パク・キュス)を経て開化党に伝承された-という通説を受け入れない。「開化党の鼻祖」たる呉慶錫は、両班の庶子で身分制を批判していた朴斉家(パク・チェガ)の学問を受け継ぎ、外部勢力の後押しを受けようとした点で、朴珪寿の立場とは大きな差を示しているという。従来の研究では、穏健開化派(金弘集〈キム・ホンジプ〉・金允植〈キム・ユンシク〉・魚允中〈オ・ユンジュン〉)と急進開化派(金玉均・朴泳孝・洪英植〈ホン・ヨンシク〉)は、朴珪寿の門下でそろって形成されたといわれていた。しかし著者は、急進開化派は呉慶錫の影響を受けたのであって朴珪寿とは関係ない、と言う。穏健開化派は従来の権力構造や親清路線を維持しようとし、急進開化派は権力構造の変革と親日路線を追求したという点で、大きな隔たりがあるというのだ。キム研究委員は「開化思想が実学を継承したという見解は、『内在的近代化』を明らかにしなければならないという強迫観念から出てきた虚構」と主張した。
開化党に対する著者の視線は、批判と同情が交錯している。外部勢力との結託を辛辣(しんらつ)に批判しつつも、国家の改革と生存に向けた壮絶な情熱には理解を示す。キム研究委員は「なるべく感情を込めないようにしたけれども、あのようになった。がたがたになった国で、内部の改革のために外部の手を借りようとせざるを得なかった開化党の立場は切なかった」と語った。